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菊池さま
山岸です。
なぜ昭和34年なのかというと高校進学に伴う輪切り現象が昭和30年代初めから始まっていたからです(昭和34年の東北大の現役受験生は昭和31年の高校受験生)。
次のような証言があります。
/* ここから */
『高校教育スクラップ』31ページ「高校体制の理想と現実
・・・・・ 宮城県では、昭和三十年初めから高校進学に伴う輪切り現象は始まっていた。
私事で恐縮だが、私の三人の妹の上二人が、宮一女高に合格する学力があったが、学校が自宅から近いという理由で、宮二女高に入った。
ところが末の妹が進学する時点で、中学校からかなり強制的に遠くにある宮一女高を受けさせられて、合格はしたものの交通費という余計なお金がかかると、母がぼやいていた。
中学校では成績で輪切りすることにより上位格付校への合格率を上げ、中学校の実績にしようとした。
そのため受験者側の意思が無視されて、中学校側の都合で受験校が決定されることが多くなった。
このようにして人為的に高校の格付は決められていった。
普通高校同士の格付、全日制が定時制よりよしとする格付、職業高校を普通高校より軽視する格付ができ上がっていった。
そして、やがて受験者側もその体制にむしろ進んで従うようになった。
/* ここまで */
昭和30年代に入って戦後の混乱や貧困が収まってきたことも関係していると思います。
進学率が向上しバスや市電の路線網や便数が充実し、家計に余裕が出てくれば親に自転車を買ってもらえる男子が増え、遠くの高校にも通学しやすくなります。
昭和20年代の合格実績は一中・二中時代の傾向を引き継いだものです。
/* 『青春の歌 仙台一高』毎日新聞仙台支局編 昭和50年発行 88−94ページ */
大正九年四月、大柄な体をフロックコートで包んだ男が仙台一中の正門をくぐった。
・・・・・教職員、生徒の迎えを受けて校門をくぐった男こそ、昭和十七年三月まで、実に二十三年間にわたって一中校長を勤めた仁丹校長こと小平高明である。
・・・・・昭和十一年の春は、小平高明にとって”苦い春”だった。
その年の旧制二高合格者争いで、ライバルの旧制二中に初めて負けたのである。
/* ここまで */
これによると小平校長の赴任以来十数年は一高がずっと勝っていたようです。
旧制中学時代の資料は両校とも完備していません。
旧制二高の合格者数が出ている年代もあれば代わりに旧制高校の合格者数が出ている年代もあります。
両校のデータがそろっている年をざっと見るとこんなに一方的にはなっていなくて、特に昭和十年代あたりは二高もかなり健闘していて「一高など問題にしなかった」と書いている二高出身者もいるくらいです。
次回に続きます。
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