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学習における結果、すなわち到達度は、わたしの見る限り、「才能・努力・環境の掛け算」で決まります。
ここでいう「才能」は、「もともと生徒さんに備わっている処理能力および向上心の掛け算」と定義します。
「もともと生徒さんに備わっている処理能力」については多言を要しません。
遺伝的な要素が大きく、いかなる指導者もこれを変えることはできません。
わたしが常々申し上げている「能力以上のことはできない」というのはここにあります。
またわたしは向上心、すなわち、もっと成績が上がるようにしたいとか、成績を上げるために指導を素直かつ真剣に聞き入れる度量があるかどうかということも「才能」に含めて考えています。
勉強の苦手な生徒さんは、「もともと生徒さんに備わっている処理能力」の高くない場合がほとんどですが、「向上心」は人それぞれです。
勉強の苦手な生徒さんのうち、指導をしていて伸びを示す生徒さんは「もともと生徒さんに備わっている処理能力」が高くなくとも、「向上心」が平均的以上である場合です。
逆に言えば、「向上心」のない生徒さんは、どれほど指導しても、また塾・家庭教師でどれほど優秀な講師のもとに学習しても、伸びを示すことはまずありません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
二番目に挙げた「努力」については、初めに書いた「向上心」と密接な関係があります。
「努力は本人の気の持ちようで、本人が強く決心することが必要」とはよく聞くフレーズです。
これはこれで正しいのですが、わたし自身はこの「努力」が「向上心」という先天的気質と密接にかかわっていると考えています。
つまり、「本人が強く決心できる」ということは、生まれ備わったものに左右されるということです。
第三番目の「環境」は、親が手を加えることのできる部分です。
これは生徒さん本人が持って生まれたものとは独立しています。
ただ、わたし自身、この「環境」は、生徒さんが学習到達度を示す上で、比較的小さい要素であると感じています。
実際、もって生まれた才能が大きく、また向上心も高くて、その結果として努力すれば、環境がいかに悪くても、その生徒さんは優れた到達度を示します。
逆に親がさんざん苦心してよい環境を整えても、生徒さん本人の「もって生まれた処理能力」や「向上心」が低ければ、残念な結果になります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
なお、ここでいう「環境」とは、て塾や家庭教師をつけるとか、百科事典を買い与えるとか、「お金をかける」ことばかりではありません。
親が子息から信頼を受けたり、子息に温かい言葉をかけたり、適切な方法で励ましたりするなど、巷間(こうかん)言われる「心のケア」をし続けることも「環境」のうちです。
以上は理論編ですが、ここで実例を挙げて上記のことをかみ砕いて説明します。
ここで野口英世と彼の母親のシカのことを挙げます。
多くの方はご存じかと思いますが、英世は1歳のときに囲炉裏に落ち、左手にを大火傷を負います。
それが左手の障害となって残り、そのために農作業が難しく、シカは学問の力で英世の身を立てるよう決心します。
そこで当時としては、まだ授業料が必要であった小学校に英世を通わせます。
ところが、英世は動かない左手を理由にイジメに遭い、不登校となりますが、ぶらぶらしている内に母親のシカに見つかってしまいます。
英世はこっぴどく怒られると思いましたが、シカはなぜ息子が学校に行きたがらないのかよくわかっていたので、このように英世に語ります。
「許しておくれ。やけどをさせてしまったのは母ちゃんのせいだ。辛いだろうがここで勉強をやめてしまったらせっかくの苦労も何にもならない。お前の勉強をする姿を見ることだけが楽しみなんだ。我慢しておくれ」
英世の心は激しく動かされ、このことがあってからは単に学校に行くだけではなく、猛勉強を始めたといいます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
ここで解説をしますと、まず、野口英世の場合、わたしが定義する「才能」を構成する二つの要素、すなわち「もともと備わっている処理能力」と「向上心」は非常に高かったものと思われます。
この「才能」については、親譲りと言えます。
というのも、あまり知られていませんが、シカは産婆としても後年活躍しました。
この産婆については、後に新しい法律ができ、講習を受け、検定試験の合格が必要になりますが、彼女は小学校を出ていません。
そこで必死で勉強し、ついに検定試験にも合格して、念願の産婆の資格を得たといいます。
シカが英世にあてた手紙をご記憶の方も多いでしょうが、あのような読み書きのレベルで検定試験に受かったというのは、並大抵の努力ではなかったでしょう。
そして英世の「環境」については、彼自身、母親が自分に愛情を注いでくれていることを十分に理解しており、そういう親子の信頼があったからこそ、シカの懇願に目を覚まし、努力に努力を重ねたわけです。
こうして見ると、学習における結果を出すために家庭教師がやれることというのは、生徒さんの「努力の後押し」そして「環境を整えるための後押し」で、それほど大きくないような気がしています。
先日の指導における一コマです。
当該生徒さんは高校2年生で、主として英語を教えています。
指導内容は、生徒さんが書いてきた教科書の全訳をチェックし、そこに必要と思われることや、難しいところの補足をしています。
菊池: (内心の声。生徒さんの訳文を読みながら)ふむふむ、この訳はちゃんとできてる。ここの箇所は和訳しづらいところだなあ。んんん? すごい! 完璧な訳だ。よくこういう訳が浮かんだなあ。この生徒さんの力からすると、こういう訳、できないはずなんだけど..... 虎の巻があるわけでもないし、どうしたんだろう?
菊池: え〜と、○○君、この箇所のこの訳、すばらしいですね。よくこういう風に訳せましたね。これ、君がこれを書いたんですか?
生徒さん: いいえ。よく分からなかったんで、母に聞きました。
菊池: お母さん? お母さんがこの訳文をお書きになったんですか? へえ〜、すばらしい。わたしもこういう仕事で飯を食ってるんで、訳をするのは慣れていますが、こんなにすばらしい日本語にはなりません。お母さん、翻訳のお仕事か何かされてるんですか?
生徒さん: いや。その昔、英語はよく使ってたって言ってましたが、あまりよく分かりません。
指導終了後、お母様にこのことをお伝えしたところ、現在、翻訳の仕事をしているわけではないが、その昔は仕事で英語をお使いになっていたということでした。
あまり詳しいことは伺いませんでしたが、文意を完全につかみ、それを自らの言葉で置き換えた意訳の文章は完全にプロのもので、わたしのする訳とは月とすっぽんです。
わたしができることといえば、あくまで大学入試に通るくらいの意訳のレベルです。
とても生徒さんのお母様にはかないません。
当たり前のことですが、世の中には密かにすごい方がいらっしゃると今さらながら感じ入りました。
お母様の爪の垢でも煎じて飲みたいほどだと、真剣に思いました。
今年は例年に比べて小学6年生の生徒さんが多くなっています。
どの生徒さんも算数の指導が主ですが、現在は分数の計算の指導をしています。
小学校で扱う内容を今一度述べますと、分数については、5年生までに足し算・引き算を扱い、5年生から6年生にかけて掛け算・割り算をやります。
ところが、6年生で掛け算・割り算をやるようになると、5年生のときにやった足し算・引き算のやり方を忘れたり、あるいは両者の扱いを混同したりということが大変目立ってきます。
勉強の苦手な生徒さんはもちろんですが、それなりにできる生徒さんでも、放っておくと両者を混同します。
それゆえ6年生の分数を指導する際は、とにかく量をこなすこと、そして5年生でやった足し算・引き算に必ず戻って計算演習をやるようにしています。
いま担当している小6の生徒さんたちに、「学校では足し算・引き算を復習することがありますか? 朝自習のプリントなどで、5年生の分数の計算をやりますか?」と尋ねると、どの生徒さんも「いいえ、やっていません」という回答です。
学校では現在教えているところで精いっぱいなのかもしれません。
となれば、わたしがしっかりやる以外にありません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしの分数の指導法としては、「大量に計算演習をする」「理屈は後から」です。
「大量に計算する」ということに関しては論を待ちません。
「足し算のやり方はこうで、掛け算のやり方はこうで.....」などと生徒さんがためらっているようでは不足なのです。
反射的にスッとこなせるようにしていくには、多くの計算演習が必要です。
また、「理屈は後から」というのは、「分数の加減乗除はこういうやりかたでやるものである」とし、学校の教科書にあるような、まどろっこしい説明は一切しません。
彼らはまず「頭で覚える」ことより、「体で覚える」ことのほうが先であると思うのです。
こと分数に関しては。
ただ、彼らがしっかりやり方を体得したと思われる後に、できる生徒さんにはなぜ足し算・引き算は通分をしなくてはならないのか、なぜ掛け算・割り算はあのようなやり方でやれば「掛け算・割り算ができたことになるのか」を考えてもらうような時間をとっています。
分数の箇所をあやふやにしてしまうと、本人はそののち数学で非常に苦労することになります。
しっかり定着を図っていきたいものです。
「学校は受験のこと、何も知らない。学校は受験に疎い」
ご父兄のこうした声に接することがあります。
また受験産業従事者のそうしたボヤキにもネットを通じて接することがあります。
それでもボヤキぐらいならまだよくて、非常に攻撃的かつ口汚く罵っているものにも、ときどき遭遇します。
では仮に学校側から「いまの学校教育のことでならともかく、なぜ上級学校に進学したときのことまで、いまのわたしたちが心配しなくてはならないんですか? それをするのは、親の役目ではないのですか?」と言われたらどう反論なさいますか?
もちろん、学校はこんなことは言いませんし、考えてもいませんが、「なぜ上級学校に進学したときのことまで、いまのわたしたちが心配しなくてはならないんですか?」という問いにしっかり答えられる方はいらっしゃるでしょうか?
わたしがこのような質問を突きつけられた場合、きちんと答える自信はありません。
では、なぜ、ご父兄や受験産業従事者は「学校は受験のこと、何も知らない。学校は受験に疎い」という言葉を口にしたがるのでしょうか。
以下はわたしの考えを記します。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
もともと学校教育と受験とは、「似て非なるもの」「本来は相容(あいい)れないもの」です。
学校教育は、お上なり、篤志家なりが国民育成のために設立したもので、「いい人材を育てる」という建前のもとに設立されこそすれ、「東大に○人入れる」という建前でつくられたものはないはずです。(現状はともかくとして)
受験とは、学校で教授する教科の中から、上級学校が、上級学校の都合だけで必要と思われるものを抜き出して評価の対象とするわけです。
となれば、その時点で、学校教育と軌を一にするものではなくなってしまいます。
そして立身出世のステータスと化した受験に勝つためには、当然、受験に関係のないものはムダとして排除されることになります。
ご父兄が学校に不満を感じるのは、なまじ学校という「もともと受験とは縁もゆかりもないところ」で、受験に関係する教科を教えているからです。
ですから、ここではちょっと視点を変えて「学校教育と受験とは、別のもの」とお考えになってみてはどうでしょうか?
そのように考えると、ご父兄は学校の認識不足に腹も立たないし、学校側としても、受験に特化した私(わたくし)の運営体である受験産業を心置きなく活用することができます。
受験産業にしてみれば、それは利益の上がることですから、断る理由はありません。
ご家庭・学校・受験産業の三者で共存共栄ができます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前述したように、学校教育は、もともとの目的が受験を想定していないにせよ、学校としては、進学実績がこれまでに増して必要となってきています。
少子化や、国・地方公共団体の台所事情の悪化で、「実績のないところには、予算を投下しない」ということをするようになっています。
こうした風潮は公立学校はもちろんのこと、私立学校も何らかの形で国・地方公共団体の補助金を受けていますから、事情は変わりません。
そうした中で、「○○学校に○名入った」という「進学実績」は、極めて客観的に目に見える「実績」です。
これが重んじられないわけがありません。
「実績」に関しては、申すに及ばず、受験産業従事者でもそうで、「Aくんは、わたしの指導で、このごろ、授業態度が立派になった。これがわたしの実績です」というよりは、「わたしの指導で、○○高校に○名合格した。これがわたしの実績です」のほうがずっとインパクトがあります。
「学校教育と受験はそもそも別のものである」.....まずこのように認識することが、ご父兄・学校・受験産業従事者の三者間の共存共栄が図られるのではないか、と考えています。
不満ばかり漏らしても、事態は解決しないわけですから.....
6月に行われた中間試験、場所によっては期末試験の結果がほぼ出そろいました。
今回は中3生の3人の生徒さんが指導開始以来、最高得点および最高順位を記録し、よく健闘しました。
ここでは2名の生徒さんの結果を取り上げます。
◎中学2年生A君 5教科487点 160名中1位
A君は中学入学以来、ずっと1位を保っています。
今回は同点1位で、しかも1点差で3位の人が続くなど、接戦となっています。
引き続きよい結果が出るようにしていきたいと思います。
◎中学3年生B君 指導開始直前(2年生9月時) 5教科359点 226名中98位→今回400点 224名中43位
B君は指導開始以来、まじめな性格もあって、順調に成績を上げてきました。
勉強量も増えたようです。
コツコツ努力したことが、確実に成果につながっています。
わたしの見立てでは、もう少し点数に積み増しができます。
100%彼の能力が引き出せるよう、後押しをします。
このほかにも伸びている生徒さんがいます。
結果が出せている生徒さんに共通しているのが、「まじめにコツコツ勉強している」ということです。
結果には必ず原因があります。
夏休み中に行われる各種模擬試験、夏休み後に行われる実力試験につなげていきましょう。
過日、兄弟で指導をしているご家庭で以下のようなことがありました。
生徒さんたちは疲れているらしく、どうも集中力が今一つです。
また一人の生徒さんが、演習中に舟を漕ぎ出したので、「指導中ですよ。しっかりやりましょう」と喝入れをすると、こんなことを言われました。
兄: 先生(=菊池のこと)の声って、眠くなるんですよ。
弟: そうそう。なんか眠くなる。
菊池: 眠くなる? わたしの声が?
兄: 先生って、優しくっていうか、柔らかっていうか、そういう話し方をしますよね。それで段々眠くなっちゃう。
弟: そうそう。自分もそう思う。
このようなことを言われたのは初めてで、褒められているのか、けなさされているのか分かりません(笑)
わたしは指導中に大きな声で喝入れをすることもあるし、「優しく」とか「柔らか」という点からほど遠い人間であることもよく自覚しています。
よく自覚しているからこそ、努めて「優しく」または「柔らか」にしようとしていたことは否めません。
しかしわたしの声が眠くなる、というのは言われたことがありません。
そんなこともあり、他の生徒さんにも「自分の声が眠くなるかどうか」を尋ねてみました。
そしたら、眠くなるとした生徒さんが1名。
分からないと回答した生徒さんが1名。
他の生徒さんは「菊池の声のせいで眠くなると感じたことはない」ということでした。
ここで「眠くなる」と回答した生徒さんは、どちらかと言えば、勉強が苦手なほうで、勉強に対する関心も今一つ、という印象を持っていました。
ということは、結論として、そういう生徒さんは「勉強が眠くなる」ということであって、「菊池の声が眠くなる」ということではなかったということです。
危うくだまされるところでした。(笑)
そろそろ夏休みが始まります。
「さ〜、夏休み!」と思いきや、受験生は勉強漬けになるという建前(あくまで「建前」)があります。
その他の生徒さんは学校の課題が重くのしかかります。
それゆえ、なかなか晴れ晴れとした気分になれないというところでしょう。
ところで、この夏休み等に課される課題については、受験産業従事者の間では評判が芳しくありません。
いわく「ムダが多い」というものです。
ご父兄がそうした「専門家」からの評判を目にすると、「『ムダが多い』と『専門家』は言っている。学校に不安が募る。かといって、『ムダな課題』でも『課題』と名がつく以上、子供たちは取り組まざるを得ない。実際のところ、どうなんだ?」とお感じになることと思います。
今回は、「定期試験前・長期休暇時の学校の課題」と題して、ご父兄の立場をわたしなりに踏まえたうえで、以下、この件に関するわたしの見解を述べます。
まずもって、「長期休暇時の学校の課題はムダが多い」というのは、そのとおりです。
それには理由があって、学校の課題の場合は、対象が全生徒であるのに比べ、受験産業の場合は、塾にせよ、家庭教師にせよ、生徒さん個々人の能力を考慮し、点を上げるために特化しています。
目的が違う以上、受験という観点から見れば、ムダが多くなるのは当然です。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
そうした点を踏まえ、では学校の課題をどう考えるかということですが、私見では「受験という観点からはムダな部分があるものの、役に立つ部分はある。よって目くじらを立てず、取り組ませてほしい」ということです。
受験から見ると、ムダというならば、学校はムダだらけです。
受験に関係ない科目の履修もさることながら、実技科目もムダだし、学校行事もムダです。
部活動などはとんでもないことになります。
そういう「ムダ」を排して高校には通わず、予備校等に行って受験に特化した教育を受け、見事に難関を突破している受験生もいます。
しかしそういう人たちは少数であり、圧倒的多数は「ムダが多い」学校のほうを選択しています。
なぜかと言えば、多くの人たちが学校を「単なる受験に特化したところ」と見るのではなく、「総合的な人間形成の場」としているからでしょう。
もちろん、かかるお金が安いからというのもあるかもしれません。
であるならば、学校の長期休暇時の課題ばかりを「ムダ」としてやり玉に挙げるのは、おかしなことになります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
部活動に関しては、「ムダ」どころか、勉強に支障をきたす大きな原因の一つにもなっています。
部活動をやり過ぎて勉強に手が回らなくなった人は何人も知っていますが、学校の宿題のやり過ぎで勉強ができなくなったという人は寡聞にして知りません。
部活動を攻撃せずに、学校の課題を攻撃するのは、片手落ちというものです。
もちろん学校の課題が多すぎて、自分のしたい勉強に特化できないということはありえます。
高校生の場合は特にそういう場合が生じてきます。
しかし条件は他の生徒さんと同じです。
わたしの見る限り、宿題がこなせないというなら、「自分のしたい勉強」のほうも、実のところ、身になっていないという人が多いという印象を受けています。
誤解されると困りますが、わたしは部活動がムダだとか、学校の課題はムダがないといっているわけではありません。
勉強に支障をきたす大きな要因を見過ごしておきながら、学校の課題ばかりを「ムダ」とするのは、おかしいのではないかと主張しているだけです。
よってご父兄・生徒さんは学校の課題とよりよく付き合う、すなわちムダな部分があることは認め、益となるところを精一杯活用するという「上手な渡り合い方」をしていくべきと考えます。
「上手な渡り合い方」については、わたしの指導でも教授していきます。
塾や個別指導教室、家庭教師など受験産業は「これだけ数字が上がりました!」ということを営業政策上、前面に打ち出します。
多くのご家庭は受験産業に対してしかるべき金銭を支払う以上、数値としての結果を求めます。
フィギュアスケートやミス日本の大会などと違って、試験の成績は数値化され、非常に客観的に結果が見えます。
それゆえ、受験産業が数値を強調するのは当然のことです。
その一方で、ご家庭とすれば、「これだけ上がりました!」という宣伝は、どこまで真実なのか、また上がるとしても、あんなに上がるものなのか、とお考えのところもあるでしょう。
今回のコラムでは、そうした疑問に、わたしの経験を交えて申し上げることにいたします。
上述の「受験産業の宣伝」に対する私見は以下の通りです。
1.「これだけ上がりました!」という宣伝は、全部が真実とも言えないし、また全部が虚偽とも言えない。
2.「これだけ上がりました!」という生徒さんは、間違いなく存在する。
宣伝はどこまでも宣伝ですので、どこまで「真実」を掲載するかは、ひとえに主宰者の良心次第ということになります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
主宰者の一人として申し上げれば、「結果が出ました!」と称する生徒さんの実名・学校名・写真がセットで掲載できれば、より信憑性が高いというふうにご家庭に判断していただけることは重々理解はしています。
とはいえ、こればかりは生徒さん本人やご父兄の意向があり、なかなかこちらの思ったようにはいかないという現状があります。
また「これだけ上がりました!」という生徒さんが間違いなく存在する、といえるのは、わたし自身の経験でそう言えるからです。
わたしの生徒さんの中で、宣伝にあるように極めて顕著な伸びを示す生徒さんがいることは事実です。
先般、こちらのコラムで紹介したBくんの例のように、約8か月の指導で素点41点、順位55位上昇した生徒さんがいます。
彼に関しては、受け持った当初から、「必ず伸びていくから、それを信じてやってほしい」ということを、生徒さん本人やご父兄に伝えていました。
そしてそのとおりになりました。
結果を出すことができたのは、彼が一生懸命に努力したからです。
またこれはわたし自身の話になりますが、わたしも中学時代にこのような伸びを経験した一人です。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
当時のわたしは、学校の定期試験で5教科460点台後半〜480点台前半をキープしていましたが、学校で実施された模擬試験では、当初、あまり高い点数はとれませんでした。
当時は今と違い、中学校において、模擬試験が実施されていました。
「宮城学習会」「みちのく学習会」という会社の模試でした。
今、手元に残っている成績表を見てみますと(それにしても、うちの母はよくこういうものをとっておいたと思います(笑))1年生の11月に受けた試験の点数が、417点。
2年生の最後の模擬試験では、456点となり、3年生11月の試験で479点というのがピークでした。
今のみやぎ模試とは問題の難易度や、受験者の人数が違いますので一概には言えませんが、間違いなく「これだけ上がりました!」といえるものだったと思います。
その当時、成績優秀者は個人名が所属中学校・点数とともに発表されていました。
1年生のときには、「世の中にはこういう人たちがいるのか.....」と感じ、それから「いかに名前を載せるか」ということばかり考えるようになりました。
その甲斐があって、目的を達しました。
.....というのが、わたしの中学時における体験です。
以上より、「これだけ上がりました!」という生徒さんは、間違いなく存在するといえます。
そうした生徒さんがたくさん出てくるよう、わたしとしては、引き続きやることをやるだけです。
このたび、生徒さんの志気を高めるために「対抗バトル」を実施することにします。
この企画は、だいたい学力が同じくらいの生徒さん同士がペアを組んで、定期試験・模擬試験の順位を競い合うというものです。
このペアは生徒さんの中からわたしが相手を決め、お互いの同意を得たうえで行います。
これは担当の生徒さん全員に実施するものではなく、学力が同じくらいの生徒さんをわたしが選んで行います。
家庭教師の指導はともすると競い合うことが少ないので、お互いに切磋琢磨してほしいというわたしの希望がそこにあります。
「対抗バトル」については、すでに2組の生徒さんの同意を得ており、お互いに顔を知らないので、「果たし状」なるものを書いてもらっています。
ルールは以下の通りです。
(1)みやぎ模試など校外模試については、点数の多いほうを勝者とする。
(2)定期試験・実力試験など、校内で行われるものは、所属学校の進学実績を考慮し、順位が「どの学校へ進学できる程度の順位か」を割り出し、より偏差値の高い学校の順位をたたき出したほうを勝者とする。
バトルの勝者へは、わたしから「豪華賞品」をプレゼントします。
生徒さんの反応として、当初は「???」という感じでしたが、次第に相手を意識するようになっています。
顔の見えない相手との勝負は、オンライン対決などに慣れている彼らとしてはさほど違和感がないようで、成績向上を図りたいと思います。
「対抗バトル」の結果は、本コラムでも順次取り上げたいと思います。
「社会人家庭教師の婚姻率って、どのくらいなんだろう?」と、先日ふと頭をよぎりました。
この「社会人家庭教師」という言葉も定義の仕方によって変わってくるでしょうが、たぶん、その方が所属する年齢の平均婚姻率と比べると低いのではないかと考えています。
理由は簡単で、収入が不安定になりがちだからです。
「一人口は食えぬが二人口は食える」というのも、今は昔であって、家庭を持つということになれば、収入の不安定さは婚姻を阻害する要因になります。
それは派遣社員・アルバイト社員と事情が同じです。
わたしの場合は、宮仕えをしていた間に家庭を持ち、その後に退職していますから、家内としては裏切られた気分だったかもしれません。
とはいえ、生きていくためには、何かをしなくてはならず、これまで曲がりなりにもやってこられたのは、家内をはじめ、多くの人に支えられてのことです。(という具合に、家内にゴマをすっておきます(笑))
さて、社会人家庭教師の婚姻率が低いということは、次のことを意味します。
すなわち、よそのご家庭の子息については、教育的観点からそれなりの見識をお持ちの一方で、自らは子供を育てた経験がなく、ましてや受験生の親になったことのない講師がたくさんいるということです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしとしては、社会人家庭教師の「親としての経験の欠如」をあげつらうつもりはありません。
ただ一点ご父兄の皆様にご理解いただきたいのは、指導の依頼をくださるご家庭は、親としての立場から家庭教師を依頼する一方で、一般論としてそれを受ける家庭教師は、どうしても親としての視点を経験しづらいのだという側面があることです。
わたしはしばしば、ご同業の方をはじめとする受験産業従事者のものした文章をネット上で見ます。
その際、御高説はまことにその通りなのだが、こういう書き方をすれば、それを受け止めるご父兄はどう思うだろうなあ、たぶんこの方は、子供を育てたことがないんだろうなあ、というような場面に出くわすことがあります。
我々の仕事は客商売である以上、いくら理論は正しくても、そう受け止められたらアウトです。
もちろんそれは個々人の受け止め方もあり、「ネットでどういうことを言おうが、自分の考えを伝えられればそれでよし」と、当該受験産業従事者が考えるならば、それはそれで見識の一つではありますが.....
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしは自分自身が「受験生の親」としての経験があります。
そこでの経験は、指導をするうえで非常に勉強になりました。
そこでしみじみ思ったのは、家庭教師にとって、生徒さんはどこまでいっても生徒さんで、ご父兄にとってはどこまでいっても息子・娘であるということです。
わたしは昨年から今春にかけて、受験生の親というのは、こんなにも気苦労の多いものなのだということを、身をもって経験しました。
そして指導する立場と親の立場とはこんなにも違うものなのかということを骨身にしみて感じました。
それを踏まえたうえで、「あのとき、ああいう言い方をすればよかった」「ああいうふうに指導すればよかった」と、わが身の至らなさを省みることしきりでした。
今シーズンはわたしなりの反省を踏まえ、指導の際に反映させているつもりです。(あくまで本人がそうしているということであり、足りないところのあるのはご容赦ください)
わたしに課せられた任務は生徒さんの結果を出すことにあります。
そうなると、どうしても「親の立場」と常に符合するとは限らなくなります。
が、「親の立場」を理解したうえで任に当たれば、全くそれを踏まえないよりはよりよい指導ができるのではないかと考えています。
ご父兄と受験産業従事者は、立場こそ違え、「子息(我々から見れば生徒さん)の結果を出す」という点においては一蓮托生ですから。
夏休みに入り、生徒さんは学校からの課題を日々こなしています。
わたしの場合は、とにかく一日も早く課題を完了するよう、指導の都度、生徒さんの進捗状況を必ず確認しています。
そのうち、どうしても読書感想文や弁論文は後回しになる傾向にあります。
よってただ単に「早くやれ!」とせっつくだけでなく、どうやったらしっかりこなせるのか、生徒さんの興味関心を引き出し、それを弁論文や読書感想文につなげるよう、聞き取りを行っています。
課題に関して、小学校や高校は、ほぼ予想通りの量です。
中学校のうち、中学3年については、だいたい読書感想文や弁論文などの作文系の宿題や、授業でやったところまで学校配布のワークを完了してくるように、というような緩めのところが多いのですが、某中学は中1・中2生と同様に「5科のワーク」のようなものを渡されています。
このまま放っておくと、生徒さんたちは勉強しないと学校が考えているのでしょう。
その中で、今回びっくりしたのが、五橋中の課題でした。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
他の課題は、ごくあっさりしたものですが、社会の課題が「教科書の巻末にある日本国憲法の前文から103条まで、条文を2回書写し、提出せよ」というものです。
「泣く子と学校の先生には勝てない」と日ごろ考えているわたしですが、さすがにこれはいかがなものかと思わざるを得ませんでした。
当該生徒さんに聞いたところ、「この課題は五橋の伝統になっているらしいです」とのことですが、そんな「伝統」は聞いたことがありません。
実際、数年前に担当した生徒さんにこの件で聞いてみたところ、「我々のときにはそんな課題はなかった」と言っていました。
先生が代わって、「新たな伝統」になってしまったのかもしれません。.....
と、書いていたら、その昔のことを思い出しました。
わたしが小学生5年・6年のころ、自由勉強というのがあり、レポート用紙に、当日勉強したことを何でもいいから書いて提出するようにといわれていました。
それで、そのとき、わたしは何を血迷ったのか、父の書棚にあった六法全書を取り出し、大日本帝国憲法の全文を数日にわたって書写し、提出したのでした。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
なぜそういうものを始めようと思ったのか、全く記憶がありません。
文章自体は、分からない漢字が満載してあり、しかも文語調で漢字カタカナ交じりという、信じられないほど読みにくいものでしたが、なぜか「何となくかっこいい」と思った記憶があります。
レポートが返ってきたとき、先生のコメントは「意味は分かったの?」と一言書いてあるだけでした。
わたしとしては、「何でこんなことを書くんだ? だったら、最後まで書いてやる!」と反発心がわき、一心不乱に書写しました。
大日本帝国憲法の書き写しについては、そのときで話が終わったのですが、その後、これが意外な効用をもたらしました。
条文の単語や言い回しの一部が、何年たってもわたしの中に残り続けたのです。
わたしは法学部に進みましたが、憲法の授業は現憲法の解釈を扱います。
大日本帝国憲法を読む機会などはまずありません。
「万世一系」「皇祖皇宗」「陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス」「統治権ヲ総攬(そうらん)シ」というフレーズをその当時覚えたことで、その後大いに役立ちました。
それゆえ、このたびの五橋中の課題も「まあ、全くのムダにはならないか.....(嘆息)」と思い直すことにしました。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
それから、これは学校の責任ではないのですが、公民の教科書の巻末に載っている日本国憲法は「前文」から掲載しています。
わたしから言わせると、前文から始まる憲法は、憲法の「全文」ではありません。
というのも、日本国憲法は、この憲法が大日本帝国憲法の改正であることを記した昭和天皇の勅語から始まり、吉田茂以下各大臣の副署があるからです。
この記述は極めて大切であり、それは憲法の条文以上に正統性を担保するうえで、欠くべからざる記述です。
憲法や法律は正統性が必要です。
つまり「なぜその憲法・法律が国家を縛るのか」という拠り所がどこにあるのかが、条文以上に重要なのです。
正統性なき条文は単なる紙切れです。
よって日本国憲法の全文を記すとなれば、憲法の前にある勅語および国務大臣の副署の記載がなくてはなりません。
これを掲載せずに「全文」ではありません。
教科書会社はなぜ勅語と大臣の副署の記述を省いたのでしょうか。
誠に不見識と言わざるを得ません。
よって、どうせ「憲法全文」というのであれば、勅語から書写せよ、というのがわたしの考えるところです。
さて、課題、しっかり取り組むとしますか.....
仕事柄、中学受験については、その是非についてご父兄からしばしば相談を受けます。
わたし自身、この中学受験に関しては考えるところがいろいろあります。
ただ、この仕事に従事する者としていちばんやっていけないことというのが、「中高一貫校や私立中学のほうが絶対にいい」とか「ナンバースクール受験のほうが絶対にいい」などと、単純な二元論で切って捨ててしまうことだと思っています。
ご父兄にしてみれば、家庭教師などの好みなどというのはどうでもよくて、指導を依頼したいわけですから、そこはわたしとしても言葉を選んで発しています。
自分の息子・娘は、地元の公立中学に進んだほうがいいのか、はたまた二華・青陵や東北学院、ウルスラのようなところを目指したほうがいいのか、それぞれに長所・短所があり、迷う方もいらっしゃるでしょう。
では、わたしの意見はというと、少なくても現在の宮城・仙台においては「生徒さんやご父兄の好みの問題」と考えています。
大切なのは、中学受験に当たっては、生徒さん本人とご父兄が同じ方向を向いているということです。
どちらが欠けてもいい結果をもたらしません。
とりわけ中学受験生は高校受験生に比べて年齢が低いですから、その分、「親の力」が大きく成否を左右します。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
さて、この中学受験ですが、いま担当している二高の生徒さんに聞いたところ、よそのクラスに古川黎明中・東北学院中出身者がいるとのことです。
また今年はいるかどうかはわかりませんが、地元の公立中学出身ということにはなっているものの、秀光中を中退し、そこから地元の公立中学に編入して、二高に入学しているという人のことも耳にしています。
彼らは二高に合格できるくらいですから、勉強のほうはしかるべき水準に達しているはずです。
彼らが中高一貫校という「ムダな高校入試の勉強をしなくても大丈夫」である環境を捨て去ってまで、なぜ二高受験に踏み切ったのかは定かでありませんが、少数にせよ、そういう事例もあるのだということは知っておいてもよかろうと思います。
ちなみにわたし自身の家庭に関してですが、わたしは娘を小学生の段階で受験生にするのは、年齢的に早いと思っていました。
小学校まではある程度のびのびさせておき、それから学区内の公立中学に行って高校受験を経験させたほうが、大局的見地から判断して本人にとってよかろうと判断したからです。
これが吉と出るか凶と出るかはわかりませんが、いまのところは大過なく高校生活を過ごしています。
わたしや家内が中学受験を経験していないせいもあったかもしれませんが、家庭教師といえども、自身の子息には特別なことをしているわけではありません。
ネット上には宮城県の公立高校の内申制度について、悪評がかなりあります。
わたしのような受験関係者にとっては、「宮城県公立高校の内申制度の悪さ」というのが、「1+1=2」というのと同じくらい当たり前のこととして認識されています。
それゆえ、どうしても「万人が『内申制度の悪さ』を知っている」という前提のもとに論を進めがちです。
もちろん、ご父兄や生徒さんの中には、その辺りの事情をよくご存じの方もおいででしょうが、そういう方ばかりではないでしょう。
そこで、「なぜ受験関係者は、宮城県公立高校の内申制度というと、そこまで湯気を立ててしまうのか」という側面から、改めて申し上げることにいたします。
まず、内申制度の評判が悪い最大の理由は、中学1〜3年生までを、同じ基準で評価し、実技教科の評定を2倍するという方式をとっている点です。
これはどういうことかと申しますと、高校入試という「中学3年の最後の時点で争うべきもの」が、1・2年の成績という「前科」に振り回されてしまう、というものです。
また実技教科のことまで神経を使わなくてはならない、ということもあります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
これはちょうど、オリンピックの出場選手を選ぶ際、しばしば取りざたされるケースと同じです。
例えば、次回の日本代表選手5人を選ぶ際、直近の「○○マラソン大会の1〜5位までを、出場選手とする」という基準が設けられれば分かりやすいでしょう。
しかし、どこからか、いろんな力が働いて、2年前の△△大会の記録の成績や、1年前の××大会の成績が、いつの間にか「総合的判断」という名の下にいつの間にか選考基準に加えられたりして、一悶着、二悶着する、というケースがあります。
であるならば、いっそのこと、内申制度なるものをなくして、入試一発とすれば分かりやすいはずです。
が、以前に述べた事情(2015年6月3日付〜7日付コラムを参照)で、内申制度をなくすことはできません。
そのような理由で、悲憤慷慨(こうがい)したり、義憤に燃えて血潮湧く受験関係者が後を絶たない、というわけです。
では、宮城県の内申制度がどのようなものか、東北6県の制度と比較しながら話を進めます。
(宮城)1年〜3年の評定を主要5教科はそのまま、実技4教科は2倍して内申点とする。
(青森)1年〜3年の評定をそのまま内申点とする。
(秋田)3年の評定を主要5教科はそのまま、実技4教科は2倍して内申点とする。
(岩手)内申点は主要5教科と実技4教科の合計とする。主要5教科において、1年生は2倍、2年生は4倍、3年生は6倍して内申点とする。実技4教科において1年生は3倍、2年生は6倍、3年生は9倍して内申点とする。
(山形)3年生の評定をそのまま内申点とする。
(福島)Ⅰ期選抜においては、1年〜3年の評定をそのまま内申点とする。Ⅱ期選抜においては、1年〜3年の評定を主要5教科はそのまま、実技4教科は2倍して内申点とする。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
こうしてみると、次のことが分かってきます。
(学年ごとの評定基準)
<1〜3年まで同じ>宮城、青森、福島
<学年が進むにつれ高評定>岩手
<3年のみ評価>秋田、山形
(実技教科の評定)
<2倍>宮城、福島Ⅱ期、秋田、岩手
<そのまま>山形、福島Ⅰ期、青森
以上を見ると、「一発勝負」にいちばん近いのが山形で、「1・2年という前科に縛られ、実技科目まで気を遣う」というハードな内申制度をとっているのが宮城、福島というのがお分かりでしょう。
福島の場合は、Ⅰ期(宮城の前期選抜に当たる)とⅡ期(宮城の後期選抜に当たる)で基準が若干異なっています。
福島のⅠ期受験者は宮城の受験者に比べると、ほんの少しだけ、実技教科に関しては基準が緩くなっています。
よって、ハードさの順位をつけると
宮城>福島>青森>岩手>秋田>山形となります。
宮城の受験関係者が寄ると触ると、内申制度に悪態をつくのはそうした背景があるからです。
個人的には、この6県の中では、山形方式がよいと考えますが、残念ながら、ここは宮城県です。
批判・欠陥があったところで、制度がすぐに変わるわけではありませんので、情報をしっかり得たうえで、しっかり対策を行っていく必要があります。
わたしも応援します。
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