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過日、仙台二高在学中の生徒さん(以下Aさんとします)が、7月に受けた進研模試の結果が返って来ました。
Aさんはこれまで校内実力試験(4月)、中間試験(6月)、進研模試(7月)、校内実力試験(8月)を受けてきました。
校内順位は90位(4月)→67位(6月)→46位(7月)という具合に順調に上がっています。
彼女は二高受験を決意したのが中3の春休みであり、二高受験生としてはやや出遅れの感がありました。
しかし高校合格後から「とにかく予習!予習!とりわけ数学の予習は徹底して進めるように!」と、こちらの指示したことを忠実に実践した結果、それが確実に成果として表れています。
さて、この模試は国語・数学・英語の3教科で実施され、全国での3教科受験者数484,399人、県内受験者が10,349人とかなり大がかりなものです。
県内ではナンバースクールはもとより、青陵さらに宮城広瀬、塩釜と言ったところも受験しています。
ですので、今年3月に行われた高校入試ではカウントされていなかった青陵、二華高中入組の実力が高校1年初めの段階でどのくらいなのかを推し量ろうとしたとき、貴重な資料となります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
さて、今回のAさんの順位はこういうものでした。
県内順位 10,349人中91位
校内順位 313人中46位
以上より、県内順位における91位までの間に、二高以外の生徒が45人いるということになります。
この45人の内訳は推測するほかありませんが、最も人数が多いと思われるのが二華高中入組です。
もちろん上記45人の中には、一高、青陵、あるいは他の学校も含まれていることでしょう。
現在の高1生における二華高中入組は80人ですから、ということは、最も少なく見積もって高1の7月の段階で、彼ら80名の半数近くはすでに二高に負けていることが分かります。
二華高中入組の生徒は、中学入学の時点において、二高の生徒を圧倒していたはずです。
しかも二高入学生と違って、「ムダの多い」高校入試の勉強をする必要はなく、また英語・数学はひたすら先取り学習を進めてきているはずです。
中学校時における英語・数学の時間は、公立中学校とは比較にならないほど多く、また充実しています。
こういう具合に、中高一貫校として、圧倒的優位性を誇っていたにもかかわらず、高1の7月の時点で、すでに半数は二高の生徒に勝てていないのです。
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(前回の続きです)
わたしの予想では、上位層における二華高中入組の生徒の割合は、来年の今ごろまでには現在より若干少なくなり、それ以降はほぼ固定すると見ています。
二高1年生の多くは、入学時点で、自分よりできる、もしくは自分とほぼ同等に勉強ができる人たちを生まれて初めて大量に目にします。
そこで、「これではいけない」と思って必死に勉強する生徒と、時の流れに身を任せてしまった生徒が早くも現れます。
二華高中入組は、そうした「もがき」の時期はとうに終了していますから、今の時期から来年の3月頃までは、もがき苦しんだ二高の生徒あるいは一高や他のナンバースクールの生徒がさらに台頭していくはずです。
わたしは1回しか結果を見ていないので、一斑を見て全豹を卜(ぼく)すという批判を免れないことは重々承知しています。
二華中受験をお考えのご父兄・生徒さんにとって、これは「不都合な真実」以外の何物でもありませんが、事実として押さえておくべきでしょう。
個人的な感想を申し上げると、わたしの出身校が二高であるため、どうしても身びいきになってしまうことは否めません。
しかし、それでも二高の独走を許すことは、二高にとっても、あるいは二華、青陵、一高、宮一、三高等のナンバースクールにとってもよくないと思います。
緊張関係にあり、お互いが切磋琢磨するというのが望ましいところです。
しばらく前、AERAという朝日新聞関連会社が出版する雑誌記事に次のようなことが掲載してありました。
いわく、昨今の貧困家庭の増加により、教育格差が広がっている。
ある中3の女生徒は、小6で両親が離婚して母子家庭となった。
彼女は九九がほとんどできず、これはゆゆしき問題であると。
確かに貧困家庭とそうでない家庭との教育格差というのは、大変な問題ではあります。
しかし、ここで取り上げられた例は貧困による教育格差とは違うと思いました。
だいたい、九九というのは小学2年生で習うものです。
彼女が小6に経験した両親の離婚そしてその結果の貧困とは随分と時間の隔たりがあります。
これを書いた記者は、小6で九九をやると思っているのでしょうか?
これは親が子の勉強に対してどのくらい関心を持っているかということであり、どちらかといえば、ネグレクト(育児放棄)に属することです。
貧困による教育格差などというものではありません。
AERAの記者にすれば、政府批判をするために、取ってつけたような記事を書いたということでしょう。
いかにもこの雑誌社の書きそうな陳腐極まりない記事ですが、何でも「政府が悪い。誰かが悪い」と言い募って済むことではないでしょう。
自助努力が一番大切なわけですから。
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(前回の続きです)
自助努力と言えば、家庭教師として指導に当たる場合、わたしが最も気をつけていることは、「いかにして生徒さんが自分の力で問題を解けるようになるか」という点です。
家庭教師とは勉強を教えることが仕事と誤解されがちですが、そうではありません。
生徒さんが学習面でしかるべき結果を出すお手伝いをするのが仕事です。
であるなら、「教えること」と同時に、「どこを教えないか=生徒さんの力でやるように仕向けるか」を見極めることも同じくらい大切です。
どの部分に手を差し伸べて、どの部分を生徒さんの自助努力に任せるかは、これはその生徒さん一人一人によって当然違ってきます。
率直に申し上げて、家庭教師は「一から十まで教えていること」のほうが楽です。
本人も仕事をしたような気になるし、生徒さん本人も指導を受けたような気になります。
しかしそれではいけません。
わたしは生徒さんに代わって試験を受けることはできません。
わたしにできることは、生徒さんのお手伝いに留まります。
であるなら、歯を食いしばって、「この部分に関してはあえて教えない」という判断も必要になってきます。
それが生徒さんの力になっていきます。
猛暑と肌寒さが混在した8月が終わり、9月になりました。
生徒さんが夏休みの期間中は、通常の指導に加えて、追加・短期の指導が加わり、東奔西走する毎日でした。
ここ数年来、わたしは、お盆期間中の3日程度と、年末年始の3日程度以外は、仕事を休まずにおりました。
わたしとしては、仕事のあることが励みであり、特に体力的にきついとは感じていませんでした。
しかし、さる5月に大腸穿孔を発症し、結果として多くの方にご迷惑をおかけしてしまったという点を考えると、「これはしっかり考え直さないといけないなあ」と感じました。
そのようなわけで、まるまる一日を休みに充てることはできませんが、夕方の指導のまでは、仕事を休んで、頭を切り替えるという日を週1回設けることにしています。
目先の仕事は遅れてしまうかもしれませんが、総合的に見て、そのほうがいろいろな面で益が多いと判断したためです。
言ってみれば、「仕事をするために休む」「休みも仕事の一環」というわけです。
わたしはそれでいいと思っています。
その一方で、生徒さんは、各所から学習については、年がら年中ムチをあてられていて、そのために無感覚になっている人もいるようです。
ということであれば、ここは発想を切り替えて、「遊ぶために勉強する」としてみてはどうでしょうか?
しっかり学習し、また結果を出していれば、周りの大人はあれこれ言いません。
なまじ義務を果たさずに義務から逃げようとするから、いろいろ言われるのです。
自分の時間をしっかり持つためにも、「遊ぶために勉強するんだ!」と考えるほうが精神衛生上もいいはずです。
大人になれば、「遊ぶために働く」ということが、なかなかに実践しづらくなります。
「遊ぶために勉強する!」と考えられるのは、今のうちだけの特権ですよ、生徒さん!
8月に行われた生徒さんの間の対抗バトルの結果です。
<仙台市青葉区Y君 vs 富谷町I君>
◎8月みやぎ模試
Y君 359点 偏差値61
I 君 347点 偏差値60
→Y君勝利!
11点の差で、Y君の勝利となり、かくして、彼は英雄となりました。
「豪華賞品」をまたまた受け取っています。
Y君、君は夏休み期間中、よく頑張りました。
併用している塾の猛特訓に耐えました。
しかし、君にはまだまだ伸びる気配を感じます。
今度は11点差と言わず、ぶっちぎりでI君を圧倒してください。
勝利の旨酒は君を待っています!
....おっと、君は未成年でした。(笑)
I君、君も夏休み期間中はしっかり勉強しましたね。
好きなゲームも平日はきっぱり絶ち、学習に専念するとのこと。
その言やよし。
今度こそ、今度こそ、Y君の鼻を明かしてやるといいです。
Y君の独走を許してはなりません。
Y君を図に乗らせてはいけないのです。
彼ら以外にも、今後、バトルを考えています。
今回の定期試験に要注目です。
ことわざに、「好きこそものの上手なれ」というのがあります。
人間誰しも好きなこと、興味・関心のあることであれば、その道に熟達します。
受験にかかわる学習というと、どうしてもおもしろみに欠けるきらいがあります。
ということになれば、家庭教師としてできることは、学習面においてなるべく生徒さんの興味・関心を引くようにするということです。
この点に関して、わたしは自身が得た知識を「小技」として、指導の際になるべく用いるようにしています。
例えば、先日、指導中に以下のような質問が生徒さんからありました。
生徒さん:
先生(=菊池のこと)、「中国」は英語でChinaで、「中国人」はChinese。
「日本」はJapanで、「日本人」はJapaneseっていいますよね。
でも、「アメリカ」はAmericaで、「アメリカ人」はAmericanですよね。
どういうときに、"-ese"となって、どういうときに"-an"ってなるんですか?
そういう基準って何なんですか?
なかなかいい質問です。
そのとき、わたしがこう回答したらどうでしょうか。
〜さあ、わたしにはよく分かりません。
そういうことは入試には直接関係ありません。
これを考えるより、別な単語一つ覚えたほうが役に立ちますよ。
理論上はその通りですが、こういうふうに言ってしまえば、生徒さんの心に響くことはありません。
むしろ知的好奇心をそいでしまいます。
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(前回の続きです)
わたしがした回答は次のようなものです。
〜どうなんでしょう。
実はわたし、これ一度調べたことがあるんです。
結論を言うと、分からない、つまりハッキリとした基準はないようなんですよ。
誰かがどこかで決めて、それがそのまま使われているっていうことなんでしょうね。
"-ese"ってなるのは、アジア地域に多いようですよ。
Chinese, Japanese, Vietnameseっていいますからね。
それから、余談ですが、松島町は「まつしまちょう」ではなくて、「まつしままち」と読むのが正しいんです。
亘理町は「わたりちょう」で、「わたりまち」ではないんです。
どういう基準になっているかっていうと、誰かがどこかで決めたんでしょうね。
明治の町制施行のときに、当時の町長さんとか、村長さんとかいう人があまり深くも考えずに。
明確なものはないようなんですよ。
東京でも、「御徒町」は「おかちまち」ですし、「番町」は「ばんちょう」ですね。
こうすれば、生徒さんもある程度納得してくれるし、また知的好奇心を高めるきっかけになるのではないでしょうか。
常にこういう芸当ができるとは限りませんが、できることをやるようにしています。
受験産業が作成するチラシ、ホームページの類では、「これだけ成績が上がりました!」という声が目白押しです。
わたしのサイトも例外ではありませんが、ご父兄からご覧になると「上がった例についてはよく分かったから、そうでない例はどうなのか?」ということも気になるに違いありません。
変わらなかった例について言及することは、いささか躊躇(ちゅうちょ)するところではありますが、ご父兄の参考としていただくために掲載することにいたします。
わたしはどの生徒さんに対しても、最善を尽くして指導をしています。
結果の出る生徒さんが多いものの、残念ながら、そうでない生徒さんもいます。
変わらなかった原因は、わたしの指導が十分でなかったということが最大のものですが、生徒さんのほうに原因はなかったのかと言えば、そうではない気がしています。
生徒さんのほうに帰すべき原因として考えられるのが、以下2点です。
1.指導開始時点での成績が、生徒さん本人の能力のほぼ限界に達していた。
2.志気が十分でなかった。
わたしの見る限り、圧倒的に2のほうが多いです。
また1・2両方に当てはまる生徒さんもいます。
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(前回の続きです)
以下実例を示します。
<実例1>中高一貫校所属の中1生
この生徒さんは、「指導開始時点の成績≒本人の能力のほぼ限界」と思われます。
中学受験のときから通っていた塾に行っていましたが、中学入学後、成績が低空飛行を続け、そのテコ入れとして、わたしの指導を始めました。
性格的にまじめでおとなしいタイプで、やることはきちんとやる生徒さんでした。
しかし周りがそれなりに優秀な人ばかりということもあり、学校の授業についていくのがやっとという感じでした。
本人もそのことを自覚しているようで、小学校のころ、自分が教室の中で感じてきた雰囲気とは異なる空間において、どうしたらよいのか分からない、という様子がありありと伝わってきました。
塾のほうはやめて、わたしの指導一本にしぼってやってきましたが、ご父兄の期待値に沿える結果を出すことができず、半年の指導で終了となりました。
このような生徒さんは、もし学区内の公立中学に入っていたほうが、のびのびとした学校生活が送れたのではないかと感じています。
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(前回の続きです)
<実例2>仙台市青葉区の公立中学に通う中2生
この生徒さんは、「指導開始時点での成績が、生徒さん本人の能力のほぼ限界に達していた」「志気が十分でなかった」の両方に該当するケースです。
1年生の英語の定期試験の点数が2回連続1ケタで、数学はかろうじて2ケタを上回るという具合でした。
指導を開始したのは2年生の春休みでしたが、特に数学において、小学校の基本的な部分がかなり抜けていました。
英語に関しては、一応、単語は読めますが、分かる単語が非常に少なく、まして日本語を見て、書ける単語はほとんどない状態でした。
指導の際は非常に素直でしたが、こちらのアドバイス・指示は返事こそ「はい」と言うものの、こちらの意をくんだ形跡がほぼありませんでした。
わたしの見るところ、本人自身が勉強にあまり関心がないのと、わたしの指示をしっかり受け止めるだけの力がなかったという、半々のケースであったろうと思われます。
そのような経緯があり、成績改善のスタートラインに立ってもらうこと自体が困難な生徒さんであり、結局7か月で指導終了となりました。
この生徒さんのお母様は、わたしの指導には満足してくださっていたようで、「先生が一生懸命に指導してくださっているのに、うちの子供は.....ほんとうに申し訳ございません」と何度も頭を下げていらっしゃいました。
こちらとしては、そのようにしていただき、大変恐縮してしまったのですが、その生徒さんの力になれなかったのは残念なことでした。
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(前回の続きです)
<実例3>仙台市青葉区の公立中学に通う中3生
この生徒さんは「志気が十分でない」に該当するケースです。
指導開始は2年生の春からで、その生徒さんの友人とグループ指導を行っていました。
この生徒さんの場合は、「志気が十分でない」というより、「志気が低い」と言ったほうが適切であり、指導がぎりぎり続けられるかどうかという線上にいました。
指導時は、こちらの言うことに素直に応じるものの、返事ばかりで、聞き入れる気持ちがほとんどないということはよく見てとれました。
数学では、字を丁寧に書いて、計算するよう繰り返し指導しましたが、乱雑に書く癖は直らず、そのせいで、計算はしょっちゅう間違えていました。
それでも本人はそれを意に介している風ではありませんでした。
頭の回転は速いほうで、もう少し腰を据えて学習に励めば、伸び代があったのですが、こちらのアドバイスを聞き入れようとする気持ちがなければどうしようもありません。
このままでは指導料をいただくのも申し訳なかったので、こちらから指導の中止を申し入れようと考えていました。
そうしなかったのは、グループ指導をしていたこの生徒さんのパートナーがいたからです。
そうでなかったら、たぶん早々に指導中止の申し入れをご家庭にしていたと思います。
結局、この生徒さんのパートナーがグループ指導をやめて、個別指導に行くということになり、それに伴い、指導は終了となりました。
上記3名の生徒さんは、わたしとして最善を尽くしましたが、能力的にほぼ上限となっている生徒さんはしかたがないとして、わたしの指導を受け入れる気持ちがなくて伸びていかないのは、いかにも残念です。
そうした生徒さんは、わたしとは別の指導者か、勉強以外のところで才能を開かせてほしいものです。
家庭教師の仕事は、生徒さんがしかるべき成果を出すようにお手伝いをすることです。
となれば、ともすると、指導は「点を上げるための技術指南」に終始しがちです。
それはそれで必要なことではありますが、生徒さんはそういう指導に「感心」することはあっても、「感動」はしないものです。
そもそも家庭教師の指導を好き好んで受けている生徒さんはいません。
ご父兄でもできることなら、家庭教師につかずに済ませるならば、それに越したことはないとお考えのはずです。
熱が出たから病院に行ったり、水道管から水が漏れるようになったから、水道屋さんに修理を頼むのと同じです。
この点、ディズニーランドに行ったり、焼き肉を食べに行ったりするのとは、次元が違います。
人々はなぜディズニーランドや焼肉屋に行くのでしょうか?
「おもしろかった」「おいしかった」という「感動」を味わいたいからでしょう。
ディズニーランドには足もとに及ばなくても、自分の指導の際に何がしかの「感動」を演出することはできないものか、と思い当たったのが、「試験に出ない英語」の時間でした。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
これは5〜10分という短い時間で、英語に大きな影響を与えたラテン語・ギリシア語の知識を生かして英単語を覚えやすくしたり、単語に隠された歴史を探求して、英語への知的好奇心を高めるというのが狙いです。
対象は東北学院大以上が受かる力を持つ高校生です。
高校生未満となると、扱う単語が非常に限られるので、指導の際の「小技」として、断片的な知識を与えるにとどめています。
この「試験に出ない英語」をやってみると、非常に反応がよく、生徒さんの目が生き生きとしてくるのがよく分かります。
中には「この〜という単語と、〜という単語はつながりがありますか?」などと毎回のように質問してくる生徒さんがいました。
「『試験に出ない英語』の時間がいちばん楽しみ」という生徒さんもいました。
こちらとしては反応がよいと、俄然熱が入り、わたし自身が実はいちばん勉強になったような気がしています。(笑)
英語のおもしろさを知った生徒さんは、当然のことながら、英語の成績がよくなります。
つまり、彼らは「試験に出ない英語」をきっかけに、ある種の「感動」を得、それがよい結果につながったのでした。
もちろん、英語の語彙を増やすのは、楽なことではありませんが、とかく無味乾燥になりがちな受験勉強に、一服の清涼剤のようなものを与え続けられればと思っています。
今回の題目は、ずいぶんとおどろおどろしいですが、以下は実際、わたしが家庭教師派遣会社にいたころに体験したことです。
受験生を持つご父兄には、他山の石としていただくべく記すことといたします。
以前、弊コラムで、おかしな理由を振り回して初回指導一発即講師交代をする母親のことを書きましたが、今回の家庭の場合は逆のケースです。
前に2人の講師が、初回指導の後すぐに交代になっており、わたしが最終的に担当することになりました。
担当時は生徒さんが中3の9月で、成績はみやぎ模試の偏差値が50前後(ほぼ全受験者の平均)でした。
ご家庭としては父親の強い希望で、偏差値70程度(仙台二高より上)くらいの関東圏の私立高校に入れたいとのことでした。
初回面談時、挨拶もそこそこに父親がおっしゃったのは、「子供の現在の成績はしかじかである。目標とするところは偏差値70程度である。この目標を達成するには、どのくらい指導回数を入れればいいか、具体的な数値で示してください」ということでした。
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(前回の続きです)
ご家庭としては、「投資効率」を事前に知っておきたいところでしょうが、指導を開始する前に、そのようなことを予測するのは不可能です。
その旨を伝えると、怪訝(けげん)そうな顔をして、「どうして具体的な数値で出せないのか」と繰り返し尋ねられました。
「検査をやる前から、その病気が治るか治らないか、医者が判断できないのと同じです」と言って、ようやく納得していただきましたが.....
そして指導を開始しようと、生徒さんの部屋に入って驚きました。
コレクションでもしたのかと思うくらいの参考書・問題集の山です。
圧巻だったのが、今後受けるかもしれないと父親が言う関東圏の高校の過去問集で、30校ほどズラ〜ッと揃っていました。
ご父兄、特に父親が力みすぎている一方、生徒さんは受験を自分のこととして受け止めておらず、「親がいろいろ言っているから.....」という感じでした。
指導の際は、母親が必ず同席し、両親揃って参観をすることもありました。
そして指導後の翌日には、「こうしてほしい」「こう教えてほしい」と実に細かな要望が父親から来ます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
生徒さんのほうは両親に反抗的な態度をとることはなく、親の言うこと、要求には素直に従うタイプでした。
しかし、いかんせん、父親の要求するレベルと本人の力との乖離が大きすぎました。
父親には、現状を考えると、当初の希望に相当無理があることは、折に触れて伝えましたが、頑として聞かず、「無理があると考えては、上がるものも上がりません。先生(=菊池のこと)はそこを自覚してください」「何としても成績を上げるとの意志を持って指導してください」と何度も言われました。
いろいろと注文が多い案件でしたが、模試の結果は改善していきました。
父親は「わたしは結果でしかものを見ませんので.....」とよく語っており、成績がよくなっているという理由で、指導を継続していたようです。
この父親は、ある有名な大手製薬会社にお勤めで、「具体的な数値で示してください」「結果でしかものを見ませんので」「無理があると考えては、上がるものも上がりません」との言葉から分かるように、会社における上司・部下の関係を、そのまま自分とわたしとに当てはめていたようです。
これらは、間違いなく、父親が仕事上で会社の上司から言われ続けてきた言葉です。
わたしも会社員の仕事をしていたから、よく分かります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
相当に息の詰まる案件でしたが、派遣会社を通じてのものであり、一旦お引き受けした以上、途中で投げ出すことは信義上できません。
指導自体は、いくら親の要求があっても、やれることとやれないことがあります。
ゆえにその生徒さんの実力を考えて、精いっぱいのことを、あまり前のめりにならずにこなしていました。
また父親と生徒さんの間に立って、何とか意識の差を埋めるべく、努めたいという気持ちもありました。
しかしこんなことを続けていれば、どこかで破綻します。
父親は生徒さんに随分と圧力をかけていたようで、年明け半ば、受験を間近に控えて生徒さんはノイローゼにかかってしまい、学校をしばらく休みました。
当然指導も休止です。
わたしとしては、「いくらなんでもこの大切な時期に.....」という気持ちと「起きるべくして起きたか.....」という気持ちが半々でした。
その後、少し体調が持ち直し、2次募集で、とある関東の私立高校に合格した旨、風の噂で聞きました。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
父親は「結果でしかものを見ない」というのが口癖でしたが、過度な期待をかけ続け、こちらの言うことには耳を貸さず、受験直前に息子をノイローゼに至らしめたというのは、結果として大失態だったというべきです。
「結果でしかものを見ない」というのが、この父親の考えならば、その言葉はブーメランになって返って来ます。
父親もそうでしたが、そばにいた母親も、こうした父親(母親からすれば、配偶者になりますが)の「暴走」を、傍で見ていて止められなかったのか、と思います。
わたしにしてみれば、「大変な案件でいろいろ勉強になった」「途中で指導が終わって残念でした。あの生徒さんは大変だったなあ」でおしまいです。
その生徒さんのことが終われば、次の案件のことを考えなくてはなりません。
新しい生徒さんのために全力投球です。
しかし、ご両親にしてみれば、自分の子供の一生の問題です。
実力相応のところを選んでおけば、このようなことにはならなかったはずです。
こうした行き違いは、単に受験のみならず、親子の関係において、長く引きずる可能性があります。
受験生を持つご父兄は、心すべきことだと感じています。
先日、指導の合間に、以下のような会話がありました。
生徒さん: 先生(=菊池のこと)、東大出で、「カリスマ家庭教師」って言われている人がいるらしいですけど、知ってますか?
菊池: ああ、知ってますよ。吉永さんって言いますね。東大理Ⅲに入ったって言うのが、売りの方ですよ。
生徒さん: 東大理Ⅲって何ですか?
菊池: 東大医学部に行くコースの人ですね。昔から定員が90名。秀才の中の秀才ですよ。日本では一番頭がいい人が入ります。これ以上の学歴はありません。料金がわたしの15倍!
生徒さん: 15倍! そんなにすごいんですか? そんなにすごい授業なんですか?
菊池: さあ、それは分かりません。
生徒さん: 先生は高くとらないんですか?
菊池: あのですね、無理なこと言わないでください(笑)。そんなにとったら、生徒さん、いなくなっちゃいますよ。わたしも一応、身の程というのをわきまえているつもりですよ。
こういうことがあり、改めて件の「カリスマ」家庭教師さんについて、ネットで調べてみました。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
同業者としての個人的な感想を述べると、「自分とは次元の違う方だな〜」というだけで、それ以上に感じるものはありませんでした。
見ていると、家庭教師がメインという感じではないですね。
むしろ興味を引いたのが、この家庭教師さんに対する「風評」です。
いろいろなことが書いてありました。
いわく、「高すぎる」「ぼったくってる」.....
わたしはこの家庭教師さんに何の義理もありませんが、これは少々お気の毒に思いました。
契約時にかかる金額を少なく見せかけて、後から管理費だの、契約更新費だのといろんな名目で費用が発生するなら話は別です。
しかし最初から「かかる金額はこれこれです」と言って、それ以上の金額が発生しないとすれば、それを「ぼったくり」などというのは的が外れています。
それから家庭教師の仕事とは、生徒さんの成績を上げてナンボの世界ではありますが、では家庭教師の「商品価値」は、成績を上げるとか、いい指導をするだけで決まるのか、と言えば、そうではないと考えています。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
こちらの家庭教師さんは、ネット上の話によれば、依頼者が殺到して引きも切らないということです。
ということは、依頼をする方にとっては、「有名」「東大理Ⅲ」ということに、非常に高い価値を見出しているということなのです。
もちろんこれまでの合格実績もあるのでしょう。
依頼者は、東大理Ⅲという水戸黄門の印籠にも似た肩書を擁する人を家庭教師として雇えば、子息がその方の薫陶を受け、それは成績以上の価値がある、ということを見出しているのではないかと推測しています。
歌手は歌がうまければ売れるかと言えばそういうわけではありません。
俳優・女優も容姿端麗ならば売れるかと言えばそういうわけではありません。
それと似たようなことが家庭教師にもあてはまるのではないでしょうか。
家庭教師の「商品価値」は、いい指導をする(これは極めて主観的です)とか、合格実績を出すとか(これは客観的にわかります)だけでは決まらないということです。
市場がそう判断しているのですから、そうなのですね。
はてさて、わたしの「家庭教師としての商品価値」って一体.....(笑)
弊サイトの指導料関連のところに、教材費の目安が記してあります。
今年度における金額は以下の通りでした。
(最高)16,199円
(最低)2,268円
(平均)8,978円
わたしは教材販売で利益を得ていませんので、教材は市販品を実費で購入していただいています。
学習の際には、参考書に直接答えを書き込まず、別途ノートを用意してもらい、それを繰り返し解くようにしています。
「繰り返し解く」というところが大事です。
塾のテキストを見ると、「○○特別講座」などの名称ごとにテキストがあって、紙爆弾になっているかなあという印象を受けます。
同じ問題を繰り返しやったほうがいいとは思うのですが、いろいろと事情があるのでしょう。
この中で、意外に値が張るのが、教科書ガイド(いわゆる虎の巻)です。
数学については、ほぼ全員にそろえてもらっています。
課題は教科書の練習問題から出すことが頻繁にあり、指導中もよく使います。
小中学生で、平均点の取れない生徒さんであれば、数学の教科書と虎の巻があれば、ほとんど用が足せます。
高い参考書はいりません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
英語に関していえば、虎の巻は中学生段階において、全員ではないですが、購入してもらっているご家庭が多いです。
英語の虎の巻は、本文中の単語の意味、訳など、ありとあらゆることが記してあり、非常に便利です。
便利さゆえに、英語教師の中には虎の巻を使用しないように指示する方もいらっしゃると聞きます。
その意味するところはよく理解できます。
単語の意味を自分で調べなくなったりするなど、あまりにお手軽すぎるというのがその大きな理由のようです。
しかし語学の入門書というのは、本来、親切であるべきです。
わたしが使っている他の言語の入門書を見ても、単語の意味と訳は細大漏らさず掲載されています。
入門段階では、覚えることが先決で、深く調べたりするのは、ある程度できるようになってからで十分です。
ただ使用するに関しては、特に訳文が「あまりにも上手すぎる意訳」になっていて、文意をゆがめてしまっているきらいがあります。
一長一短がありますが、わたしは「便利さ」のほうを優先しています。
7月来、「対抗バトル」をやってきましたが、これをさらにバージョンアップさせ、ルールを変更することにします。
1.「対抗バトル」参加者は、生徒さん全員とします。
2.表彰の基準は「前回の試験に比べてどれだけ順位、あるいは偏差値を上げたか」です。
3.「校内試験部門、模試部門」の2部門に分けて改善率を競います。
改善率とは、例えば200人中50番の生徒さんが40番になった場合、(50番−40番)÷200人×100=5%と計算します。
また偏差値が50から54になった場合、(54−50)÷50×100=8%と計算します。
4.改善率の最も高かった生徒さんを「英雄」として、表彰します。
5.表彰は毎月行います。
6.これに加え、不定期に「敢闘賞」を設けます。
基準は菊池が「よく頑張った」と判断した生徒さんです。
主に小学生が対象となりますが、その他の生徒さんも対象になります。
客観的な基準はありません。
菊池の独断で決定します(笑)
7.入賞者には豪華景品(!?)をプレゼントします。
8.表彰は来月より行います。
基準は9月の試験からです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
新ルールにしたきっかけは、バトルに参加していない生徒さんから、「自分もできれば参加してみたい」という声があったためです。
いろいろ聞いてみると、わたしが生徒さんに進呈している「豪華賞品」に興味があるようでした(笑)
本企画は、ともすると他の生徒さんを意識しづらくなる家庭教師という指導形態からいかに脱却して、生徒さん同士の切磋琢磨を図るべきか、という目的のために編み出したものです。
対抗バトルは、成績が同じくらいの生徒さん同士が競っていましたが、そうなると、成績が同じくらいの生徒さんがいない場合の生徒さんをどうするかということについて、課題が残っていました。
今回のような形になれば、参加できる生徒さんの範囲が広がります。
ただ、表彰の基準は「前回の試験に比べてどのくらい成績を上げたか」というもので、もともと成績のよかった生徒さんは不利になります。
そして1回成績が下がってしまって、また持ち直した場合などは、「改善率」が過剰に算定されてしまうなど、不公平があると思います。
しかし、それでいいと考えています。
対抗バトルの趣旨は「成績が伸び盛りにある生徒さんの後押しをする」ということなので、もともと成績のいい生徒さんは、「敢闘賞」で報います。
さあ、生徒さん、頑張っていきましょう!
ときどき、指導中、生徒さんのほうから「○○は苦手です」という言葉を聞くことがあります。
この○○にはいろんな言葉が入ります。
数学、英語とかいう教科の名前だったり、関数だとか、単語の暗記だとか、特定の分野だったりします。
しかし、生徒さんがこの言葉を発した場合、「なるほど、○○は苦手なんだな」というのが理解できる場合がありますが、大抵は「単なる勉強不足」だったりします。
いつぞや、かつて受け持っていた生徒さんの中に、この言葉を口癖のように発する生徒さんがいて、何かにつけ「英語、苦手だな〜」「数学、苦手だな〜」と言っていたものでした。
「では、君の得意な教科は何ですか?」と聞いたら、「家庭科」という答えが返ってきました。
家庭科が得意というのは、わたし自身がその昔、家庭科というのは得意なほうでなかったのでうらやましいとは思いました。
が、この生徒さんは、きちんと勉強している形跡がなく、単なる「勉強不足」を「苦手」と言いかえていただけのようでした。
両者はもともと別物なのですが.....
(次回に続きます)
(前回の続きです)
誰しも苦手なものというのはあります。
かくいうわたしは美術が苦手でどうしようもありませんでした。
せめて人並みにできるようになりたいと思ったものでしたが、「見た通りに描きなさい」などといわれるので、「その『見た通り』ができない自分はどうしたらいいのか」と心の中で反芻(はんすう)していました。
苦手は苦手なりに必死にもがくというのは大切なことです。
しかし、生徒さんは一旦「苦手」と心の中でレッテルを張ってしまうと、それ以降、まともに努力をしようとしなくなるという場合が非常に多いように見えます。
「苦手.....だからやらなくていい」
「苦手.....だから逃げていい」
そういう意味で、「苦手」というのは便利な言葉です。
しかし、世の中に出ればわかりますが、仕事で「苦手」なことは山のように出くわします。
苦手な上司、苦手な顧客、苦手な事務処理.....
うんざりするくらい「苦手」が迫ってきます。
勉強の場合であれば、「苦手」はすべて自分が原因ですが、社会人となった場合の苦手は相手がいることなので、簡単に逃げるわけにはいきません。
そうした際に耐性が付くよう、今から「苦手」なことでも、めげずにやってほしいのです。
「言い訳はいいから、まずやることをやりましょう」.....これに尽きます。
<歌詞>
1 園の小百合 撫子 垣根の千草
今日は汝を眺むる 最終の日なり
おもへば涙 膝をひたす さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
2 つくし摘みし岡辺よ 社の森よ
小鮒釣りし小川よ 柳の土手よ
別るる我を 憐れと見よ さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
3 此処に立ちて さらばと 別れを告げん
山の蔭の故郷 静かに眠れ
夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
この歌はもともとドイツ民謡からとったものです。
ドイツ民謡はスコットランド民謡などに比べると、入っている歌が少ないように思います。
非常に格調高い訳詩であり、音楽の時間に習ったとき、「きれいな歌だなあ」と感じ、以来お気に入りの歌の一つとなりました。
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