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今日は9月1日です。
関東以南の学校では今日から新学期というところが多いようですが、当地ではとっくに新学期が始まっています。
9月というのは、期末試験があり、受験生には模擬試験もあります。
ここで「夏休みの成果がいかほど出ているか」ということが試されます。
試験を控える生徒さんたちにとっては「気が気でない」時期の始まりになります。
そしてそれはわたしのような受験関係者にとっても同じことです。
わたしが今回、ご父兄や生徒さんにお伝えしたいのは、この9月1日という日を、3か月前の6月1日と3か月後の12月1日との比較でとらえてほしいということです。
3か月前の6月1日.....中学・高校では、運動部のメインイベントである総体の準備に大わらわでした。
多くの人にとっては、後に控えた試験どころではなかったはずです。
3か月後の12月1日.....当地宮城ではすでに初雪も降っていることでしょう。
受験生にとっては、言わずもがなの「張り詰めた時期」を迎えます。
3か月前の6月1日から今日までの時間の長さを考えてみてください。
夏休みをはさんだりしていろんなことがありました。
その間、何だかあっという間に過ぎてしまったと感じるのではないでしょうか。
わたしが述べたいのは、6月1日から今日までと同じ時間が過ぎてしまうと、瞬く間に12月1日になってしまうということです。
その間にすべきこととしては、気ばかり焦って「どうしよう、どうしよう」と慌てたり、「だから何?」と馬耳東風状態にならずに、飽きずに「毎日すべきことを着実にやって行く」ということです。
「またそれ?」「そればっかり」とお感じになる方もおいででしょう。
はい、そればっかりです(笑)
ほかにどうしたらいいですか(笑)
なおこれは、ご父兄や生徒さんに対してのみならず、わたし自身に対しても語っています。
さて、12月1日まで、どう過ごしましょうか?
親は勉強しようとしない子供に「勉強しろ」と繰り返し言う.....
そしてそれを聞く子供のほうは、そこから逃げようとする.....
これは親と子の永遠のテーマで、解決する見込みはありません。
わたしは両親から「勉強しろ」と言われたことがないので、始終「勉強しろ」と言われる子供がどう感じているのかというのは、今一つピンと来ない面があります。
さはさりながら、子供の立場になって考えると、ただ闇雲に「勉強しろ」というのでは、心に響きません。
「やっておかないと将来、大変なことになる」というフレーズをつけても、大きく変わることはないでしょう。
そこでわたしが提案するのは、「勉強しろ」というのも結構でしょうが、子供にご父兄ご自身の社会経験を語ってみてはどうかということです。
当然のことですが、高校生までの子供であれば、社会経験のあるという人はほとんどいません。
せいぜいがちょっとしたアルバイトをするくらいで、それすらも経験していない人がほとんどです。
ところがいったん社会に出ると、自分の親、あるいは祖父母くらいの年齢の人と働くのは普通です。
新人として入った場合、自分以外はみな自分より偉いという世界にさらされるわけです。
そこでは結果のみが求められ、「よく頑張りました」というだけでは、何の意味も持ちません。
職場では、自分とそりが合わない上司、派閥などの人間関係、学歴の持つ意味など、「社会に出て初めて分かること」というのが目白押しです。
そういったことを、子息に語ってみてはいかがでしょうか?
(次回に続きます)
(前回の続きです)
こういうことを話すのは、せいぜいが配偶者に対してであって、子供にまで話すというのはまれでしょう。
話すとすれば、どうしても愚痴っぽくなってしまい、「子供に聞かせる話ではない」となりがちだからです。
事実、わたしも両親からこのような話は聞いたことがありません。
わたしが就職をして感じたのは、組織というのはどういうものなのかということを、両親からもっと聞いておきたかったということです。
そうすれば、もっと仕事選びには慎重になり、中途退社せずに済んだかもしれません(笑)
それゆえ、この手の話は、子供の立場からすると、新鮮に聞こえます。
「自分の親は、こういう大変な思いをしてお金を稼いできてくれているのか」と改めて思い返すきっかけにもなります。
そしてそこに、「なぜ勉強しなければならないか」という意味を見出す子供も出てきます。
わたしは娘にこういう話をすることがあります。
もちろん、そこは子供に話すわけですから、話せること、話せないことは、はっきり区別しなくてはなりません。
娘の表情を見る限り、非常に生き生きとして聞いています。
ただ、語るときには、ときどき失敗談や自虐ネタを取り混ぜながら話すというのがコツです。
あまり「ほら、だから勉強しなきゃいけないんだ」というオーラ全開で話すとかえって逆効果になります。
せっかく子育てをしているんです。
もっとその苦労を、子供が分かってもいいのではないでしょうか?
国語の長文問題に悩む人は多いです。
漢字の読み書きや言葉の意味といったような知識を問う問題であれば、知ってる、知らないが瞬時にして分かります。
ゆえにこれらの問題に対しては、「知識を増やす」という訓練をすれば足ります。
しかし、以下のような問題になると、それとは勝手が違ってきます。
「文章中の.....とは、どういうことか、30字以内で説明しなさい」
「文章中にある.....とは、なぜそういうことが言えるのか、次のア〜オの中から最も適切なものを一つ選びなさい」
などなど.....
「『文章中の.....とは、どういうことか』っていうけど、『どういうこと』って、どういうこと? 答えようがないんだけど(微苦笑)」
「ア〜オから一つ選べっていうけれど、どれもそれっぽいし..... 消去法で選ぼうとしたら、みんなバツになっちゃったよ。どうしよう」
などと心の中で独り言をつぶやきながら、試験に立ち向かっている生徒さんの姿が容易に想像できます。
なにしろ、これはわたしが現役学生の頃もそうだったのです(笑)
こういうつぶやきをしたところで、試験の点数が改善するわけではありません。
そういうときに考えるのは、「国語の長文問題が解けるようになるためのテクニックはどうなっているの? それを知りたい」ということです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしも職業柄、テクニックと言われるものはいろいろ頭に入っていて、指導の際に生徒さんに教授しています。
どのくらい効果が出るかというのは、生徒さんによりまちまちです。
一般的に言って、もともと持っている学力・理解力が高い生徒さんほど、「テクニック」を教えれば高い伸びを示します。
成績が下るにしたがって、「テクニック」を吸収できる割合は低くなっていきます。
ご父兄からは「テクニックや解き方を教えてほしい」というご要望をよくいただきます。
国語に限らず、それが十分に効果があるためには、生徒さんにそれをこなすだけの力が備わっていなければなりません。
さらに「テクニック」で指示したこと自体、よく理解できないとか、指示したそのときには頭にあっても、時がたつと、忘却の彼方へ、という生徒さんは珍しくありません。
当該生徒さんが、期待しただけの伸びを示せない場合、大きく分けて2点、その原因があると考えています。
まず第一点目として、その生徒さんの語彙力が十分ではないということです。
長文問題の際、いろいろと細かいことを尋ねると、実は文章の意味がよく分かっていないという場面にしばしば遭遇します。
これは問題となっている文章を、黙読だけでなく、音読させると「ああ、ここの箇所、この生徒さんは分かっていないな」というのが何となく察することができます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
例えば、生徒さんに「チョコレートってどういうものですか?」と問えば、「こうなって、ああなって」というふうに詳しく説明してくれるでしょう。
それはチョコレートがどういうものか、実体験を含めてよく知っているからです。
ところが、「AとBとは、この問題に関して不可逆的に解決した」という文章にある、「不可逆的に解決した」というのはどういうことなのか、と問うたとき、答えられない生徒さんはかなりの数に上るはずです。
ある程度の学年以上になってくると、国語の試験にこうした表現は山のように出てきます。
文脈というのがありますので、一つや二つ、単語が分からなくても、全体の意味をつかむには、さほど大きな影響は与えないかもしれません。
しかし、個々の問題を解く際、非常に大きな影響を及ぼします。
第二点目として、生徒さん自身の持っている総合的な知識が十分ではない、ということです。
試験問題には、猫とネズミが喧嘩をして、ネズミが猫の耳をかみちぎって逃げおおせた、などという単純なものは出てきません。
環境問題やら、社会科の知識、理科の知識など、その学年にふさわしい知識がなければ、その文章を十分に理解することはできません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
それでも小説や物語のようなものならば、会話が出てくるだけ、まだ何とか太刀打ちできる部分は出てきます。
しかし硬い論説文のようなものは理解が困難です。
国語の教科書や入試問題を読んでみれば分かりますが、これらの文章は、語彙力以外に、相応の知識がないと読みこなせません。
中学生でも、太陽が東から昇って、西に沈むということや、宮城県の周囲には何県があるか、という知識のない生徒さんは意外なほどいます。
そういう生徒さんが、いくら「テクニック」のようなものを教わったところで、結果は明らかです。
逆に、いろんな知識のある生徒さんは、知識がある分、抽象的な言葉でも、そこから何らかのイメージをつかむことが容易です。
例えば「社会保険制度と少子高齢化の関係」などという知識を何かしら持っている生徒さんであれば、こういうことを扱った文章は、そういう知識のない生徒さんよりもずっと確実に理解できます。
そういう「知識のポケット」の大きい生徒さんは、それが小さい生徒さんに比べて、それだけで読解には有利です。
上述したことは、「テクニック」だけでは到底解決できるものではありません。
もちろん、「テクニック」を知っていれば、知らないよりは「正解が多くなる確率は高い」とはいえます。
「テクニック」だけに重点を置くのは、限界があるということなのです。
10月より、標記の件につき、2点改正いたします。
(1)現在担当しているご家庭の指導料支払い方法現金にてお支払いいただいているご家庭について
(現行)月末最終指導日
(改定)翌月最初の指導日
(2)10月1日以降、新規にお申し込みのあったご家庭に関する料金
(現行)小学生 2,800円/時間
(改定)小学生 3,000円/時間
(新設規定)90分指導の際は1時間当たり10%割増
(1)については、駐車場の料金が発生する関係で、一部のご家庭には例外措置としてすでに実施しておりましたが、10月より全ご家庭に実施いたします。
お振り込みで指導料をいただいているご家庭については、これまでどおりです。
(2)については、現在担当のご家庭には変更なく、これまでどおりです。
変更となるご家庭には、後日個別にお知らせいたします。
よろしくお願いいたします。
先日の指導で、中3のある生徒さんと次のようなやり取りがありました。
菊池: 第一志望校のみやぎ模試判定.....Cの40%ですか.....
基準偏差値に3足りないわけですね.....
(しばし沈黙)
菊池: あの〜、この高校、入りたいですか?
生徒さん: 入りたいです。
菊池: どうしても入りたいですか?
生徒さん: (一瞬詰まり、ちょっと困惑の表情を見せる)
菊池: あのですね、厳しいことを言いますよ。
基準偏差値に3足りないっていうことは、ボーダーラインにだいたい25点足りてないっていうことです。
ですから、この高校にどうしても行きたいと思って、勉強しない限り、残念な結果になってしまうっていうことです。
公立高校の入試って、3人のうち1人が残念でしたってなるんです。
前から言ってる通り、どうしても行きたいと思って勉強すれば、絶対に突破できるわけではないけど、今はそれが必要ですよ。
だからランクを1ランク落とすか、そこに行きたいなら、どうしても行きたいと思って勉強する以外にありません。
「行きたい」っていうのなら、その覚悟がありますか?
高校受験について、玉砕覚悟で記念受験をするか、ランクを落としてより入りやすい高校にするか、頑張るだけ頑張っていきたい高校を受験するかは、ひとえに生徒さんのみが選択できます。
「受験する高校は、親が勝手に決めた」という場合はあっても、試験を受けるのは、生徒さんしかいないからです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしは、何が何でも歯を食いしばって高いランクの高校を受験すべきとは考えません。
どういう道を選択するか、こだわりを持つかは、生徒さんが決めることです。
もっとも指導の際は、より成績が向上するように努め、またより高い目標に挑戦するように誘導するということはします。
これは家庭教師としての本能のようなものです。
みやぎ模試の基準偏差値に3足りないということなら、これはどうしても突破したいと思って必死にもがかないことには合格できません。
「どうしても入りたいですか?」と尋ねたとき、生徒さんがどういう反応をするか、考え方の差が出ますね。
それから表情とか口ぶりというのは、絶対に嘘がつけません。
もちろんこの生徒さんにしても、「入りたい」という気持ちはあるでしょう。
逆に「入りたい」という気持ちが全くないという人のほうが珍しいです。
そして目指す人全員が「どうしても入りたい」というふうには必ずしも思う必要はありません。
普段から「余裕をもって合格」というような成績を取っているなら、「入りたい」という気持ちがあれば十分でしょう。
しかしボーダーラインに届いていないという生徒さんは.....
「どうしても入りたいですか?」と尋ねられて、一瞬詰まるようでは、まだまだ甘いっていうことなんです。
このとき「はい、どうしても入りたいです」と答えるようであれば、その後、膨大な学習量に耐えて、栄冠をつかむという可能性は十分に出てきます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
なお、上述のような「喝入れ」は「この生徒さんは、まだ取り組む姿勢が今一つ甘い。しかし可能性が残っている」と判断している場合にのみ行ってきました。
そもそもよい結果を出している生徒さん、結果はかんばしくないが、必死に頑張っている生徒さんは「喝入れ」をするのではなく、なるべく温かい言葉をかけるようにしています。
また「この生徒さんは、『喝入れ』をやったところで、糠に釘だろう」と判断する場合、何も言いません。
ですから、「喝入れ」をされた生徒さんは、「このごろ菊池は褒め言葉のようなのが多くなってきたなあ」と思うなら、それは成績が改善したり、また「必死さ」がにじみ出てきている証拠です。
逆に、「このごろ、何も言われなくなったなあ」と思うなら、それは菊池が「処置なし」と判断しているものと受け取ってほしいのです。
わたしもこの仕事をやって長いです。
2時間ビッチリと生徒さんの横に座っていると、表情、目力、発する言葉の端々、ちょっとした所作などに、「必死さ」というのを読み取ることができます。
生徒さんは「必死」になると、言い訳をしなくなります。
「理屈と膏薬はどこにでも付く」という言葉があるように、「できない理由」を並べ立てるようでは、まだまだ「必死」になっていないということの証左です。
繰り返します。
ボーダーラインちょい下の生徒さんは、「どうしてもこの学校に行きたい」と思って努力しない限り、受かりません。
「10年後の自分」を想像し、「どうしてもこの学校に行きたい」と思って努力するか、そうしないかは、自分自身しか答えを出せません。
どうぞ悔いなきよう。
今回は仙台一高の入学試験について書いてみることにします。
多くのご父兄・生徒さんは、公立高校の入試には前期・後期があり、前期には出願条件があることはご存じでしょう。
出願条件というのは、「スタートラインに立てる」ということです。
当然の話ですが、合格できるかどうかというのはそれからのことです。
一高の場合、前期の出願条件については、中学校の評定に縛りを設けていません。
これは、例えば仙台二高が「3年間の評定平均4.8以上」としているのと比較すると、かなり「太っ腹」な条件です。
では、実際に前期合格している人は、どのくらいの評定を取っているかと言うことについては、手元に市内の某有名進学塾のデータがいくつかあります。
以下、それを基にお話しします。
それらによれば、3年間の評定に関しては、「1〜2科目に4があって、残りは5」というのが、「合格者平均」とされています。
ということは、二高の後期出願者とそれほど大きく隔たっているわけではないということです。
そのようなことを考えると、「出願条件に評定の制限がないから」という理由で、内申点イマイチの生徒さんが、喜び勇んで出願しても、多くの人たちは「記念受験」に終わってしまうという現実があります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたし自身、「記念受験」には何がしかの意義があると考えています。
後々の人生において、記念受験であれ、何であれ、一高の前期試験を受験したというのは、よい経験となるでしょう。
とはいうものの、受験者があまりにも多くなり過ぎれば、それを採点する先生のほうに負担がかかります。
よって、現場の先生の本音を言えば、「受験者数を絞ってほしい」ということになるのでしょう。
が、そういう中で、「評定制限を設けない」という姿勢には敬意を表したいと思います。
前期合格ということを考えた場合は、実際のところ、内申点もかなり高くないと、合格はおぼつかないということになります。
内申点がイマイチということであれば、本番の試験でガッチリと強さを発揮しなくてはなりません。
また実際のペーパー試験では、上位校によくある通り、数学の出来がキーポイントです。
一高であれば、前期入試で8割台後半の点数はほしいところです。
特に数学は、非常に高度なものが求められています。
過般行われた、夏休み明けの一高1年生の実力試験の数学の平均点が100点満点で30点を切っている状況だと言いますから、その「厳しさ」が分かろうというものです。
前期合格を目指す人は、合格後のことも考えて、数学1問1問を丁寧に解くこと、解けなかった問題は何度も挑戦して自らのものにするという姿勢を保ってください。
それが高校入学後、必ず役に立ちます。
わたしが家庭教師という仕事をするとき、心がけていることの一つに「生徒さんに敬意をもって接する」ということがあります。
ご父兄に対しては、指導の依頼を受けている者として、敬意をもって接するということは自然にできます。
その一方で、生徒さんとなると、自分の子供と同じか、それより少ない年齢の人が相手です。
かつそこには「菊池=教える人、生徒さん=教えを受ける人」という図式があります。
そのため「敬意をもって接する」ということができにくい環境にあります。
生徒さんは、わたしのような講師から見ると、未熟であり、考え方の甘さが目立つのは事実です。
しかしそれゆえにこそ、わたしのような者が家庭教師としてついているわけです。
また自分が彼らの年齢だったころのことを振り返ると、「偉そうに道を説けるのか」というツッコミがどこからともなく聞こえてきます。
実に汗顔の至りです。
彼らの甘さや未熟さは、そのたびごとに指摘し、諭していきます。
が、だからといって、彼らに尊大な態度をとっていいことにはなりません。
指導という場で、講師と生徒という関係であっても、その根っこにあるのは、わたしという「一人の人間」と、生徒さんという「一人の人間」との関係です。
またいつかどこかで、生徒さんにはお世話になるかもしれず、「人と人との関係」は年齢や立場を超えて、大事にしていきたいものです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
「敬意をもって接する」という点においては、学校に対しても同様です。
わたしのような受験関係者からすると、受験というものに対して、学校の足りないところがよく見えます。
公立学校もそうですが、私立学校もそうです。
しかし学校教育と受験とは、もともと別次元のものです。
学校は本来、受験のためにあるわけでない以上、それは当然です。
近年において、少子化のために、学校では進学実績という「目に見える成果」が今まで以上に求められるようになっています。
学校の足らざる部分を補っていくのが、わたしのような受験関係者です。
もちろん学校といえども、そこで教鞭をとる先生方は聖人君子ばかりが集っているというわけではありません。
足らざるところはあるし、「???」という対応もあります。
わたしとしては、それはそれで一つ一つ対処しつつ、同時に先生方の日頃のご苦労にも思いを致すということを常に忘れずにいるようにしています。
学校の先生方が頑張ってくださっているおかげで、わたしのような受験関係者は、受験に特化したことができています。
「餅は餅屋に任せてください」と言えるのは、学校の先生方の指導があってこそです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしが受験という専門知識をこれ見よがしにひけらかし、学校の先生方の知識不足を声高に言い立てれば、確かにご父兄からの受けはよくなるでしょう。
学校の先生方との違いをご父兄に印象付けることが可能になるからです。
では、わたしのような受験関係者が、いじめ、不登校、生徒さんの家庭内の不和、貧困の問題、部活動の問題等々を、学校の先生と同等に知っているかと言えば、決してそんなことはありません。
学校の先生方は、日々そうした課題と格闘されています。
おまけに公立中学校では、問題を起こす生徒を退学にできません。
最近は、能力別指導というのも広く行われるようになっています。
しかしそれは、受験関係者が実施するものと比べると、かなり大雑把なものになってしまっています。
指導に携わる先生方からすれば、もう少しきめの細やかな指導をしたいとお感じになっていらっしゃるはずです。
そこに学校という限界があります。
ご父兄が学校に対するご不満を口にされることもあります。
その際には、以上のようなことを考慮に入れつつ、学校とご父兄とのよい橋渡しになることができればいいと考えています。
学校の先生方には、生徒さんの卒業式への出席という、晴れがましい舞台が用意されています。
その一事をもってしても、受験関係者は、学校の先生方にはかなわないのです。
宮城県の公立高校入試においては、中学校の評定と、当日の点数の二つの要素で合否を決定することは多くの方がご存知かと思います。
この中学校の評定については、実技教科を2倍して「評定」とするようになっています。
「実技教科だけなぜ2倍?」という点に関して、わたしが先ごろ県教育委員会に質問を出したところ、以下のような回答が返ってきています。
1.主要5教科については、入試当日に学力検査があるので、評定はそのままとする。
2.実技教科は入試科目にないので、それへの代替として評価を2倍する。
しかし、これはたぶん「建前」の話です。
ホンネは入試科目にない実技教科の授業を受ける中学生が、これらを軽視することのないように「内申で縛る」ということだと考えています。
と申しますのも、似たような話が東京の都立入試でもあったからです。
東京は今春の入試から、実技評価の内申を1.3倍→2倍に引き上げました。
この理由として、中学校の先生方から、生徒さんたちが実技教科をないがしろにしていて困るという声が上がっており、それが受け入れられたという経緯があるからです。
宮城県でも事情は似たようなものでしょう。
それから「実技を2倍する」というのは、東北地方ですと、福島、秋田、岩手がその方式を採用しています。
よって、内申制度ということを考えた場合、「実技2倍」はそれほど奇異なものではありません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
また生徒さんの評定を見ているとはっきり分かるのは、主要5教科と実技4教科との間に大きな関連性が見られるということです。
具体的に申せば、主要5教科の成績がよければよくなるほど、実技4教科の評定も高くなる傾向にあります。
例えば、サッカーなどのクラブチームに属していて、「運動バリバリ」で筋肉偏差値(そういうものがあるとしての話ですが)が限りなく高いという生徒さんがいたとします。
しかしお勉強のほうはお留守になりがちでオール3またはオール2という場合、評定は3が「定位置」で、4が少しあるという程度です。
5という評定は見たことがありませんでした。
他の実技教科も「右へ倣え」という数字が並びます。
逆に運動はそれほど得意そうではなくても(これはわたしの見た目です)、5教科の評定がよければ、体育の評定も5あるいは4という場合がほとんどです。
そして他の実技教科も同じような数字が並びます。
そういう生徒さんが3という評定を取る場合だと、授業をまじめに受けていないとか、提出物をきちんと出していなかったなど、本人に身に覚えがあるということがほとんどでした。
以上のようなことを考えると、学校の評定というのが、例えば体育であれば、純粋に運動神経が発達しているか、鈍いかというだけで判断しているわけではないということがよく見て取れます。
そこでは、定期試験の点数とか、提出物などの日頃の取り組みを総合的に判断しています。
実技教科の評定は難しいですが、完璧ではないにせよ、公平性を保とうとする努力はされているようです。
およそ入学試験というものは、「どれだけ知識があるか」「どれだけ確実に記憶し、アウトプットできるか」ということが勝敗を決します。
「こんなこと、知っていて役に立つの?」と思われるようなことであっても、文章を読んだときには理解する助けとなります。
それゆえに多くの家庭では、子供が小さいときから家に百科事典を置いたり、学習漫画を買ったりして知識向上に努めます。
わたし自身も中学校入学までは、時間ができると、百科事典をよく眺めていました。
また、いとこからのお下がりでもらった文学全集も、お気に入りのものを繰り返し読んでいました。
そのほかにも、母が学習研究社の「科学」「学習」を毎月取ってくれていました。
扱っている内容は、今にして思えば、そこそこ高度なものでした。
付録もついていて、これも楽しみでした。
わたしは中学受験を経験したわけではなく、それがすぐに成績向上に結び付いたというわけではありません。
しかし中学・高校と進むにつれ、特に理科や社会で「科学」や「学習」で扱っていたことが大いに役立ちました。
わたしも生徒さんが、ある一定以上の成績を取っている場合、特に中学受験を目指している場合は、単に問題演習をやるだけの指導にならないように努めています。
具体的に申せば、一つの話題から派生するいろんな事象を積極的に取り上げています。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
例えば、こんな感じです。
以下は、過般、小学生の生徒さんとわたしとの休憩時間のやり取りです。
菊池: こないだのお休みはどこか行ってきましたか?
生徒さん: キャンプに行ってきました。
菊池: キャンプですか。
楽しかったでしょう。
キャンプでは何を食べましたか?
生徒さん: カレーライス
菊池: 定番ですね(笑)
なぜキャンプではカレーが定番になっているか分かりますか?
生徒さん: さあ.....
菊池: これはわたしの考えなんですが、カレーはご飯を盛り付けて、できあがったらカレーをざっとかけるだけでいいですから、割と簡単にできますよね。
ハンバーグとか目玉焼きを作るとなると、結構手間がかかるでしょ。
生徒さん: あ、ホントだ.....
菊池: それからカレーって、お肉とか、いろんな野菜が入っていて、栄養がいっぱいなんですよ。
日本でカレーを積極的に取り入れたのは、明治になってからの軍隊です。
生徒さん: 軍隊?
菊池: そうです。
軍隊ですよ。
兵隊さんたちは、戦争するわけですから、食事も簡単で早く、しっかり栄養を取らなくてはならないんです。
日露戦争のときには、脚気(かっけ)という病気で、兵隊さんが随分亡くなっています。
だからきちんと栄養を取ることって、大事なんです。
今お話しした、日露戦争はいつ、どうして起きたか分かりますか?
(中略 日露戦争についての説明を簡単に)
それから横須賀には海軍カレーっていうのがあります。
横須賀ってどこにあるか分かりますか?
生徒さん: え〜、横須賀、分かりません。
菊池: じゃあ、地図で調べてみましょう。
ほら、ここです。
(地図帳を指さす)
話がどんどん展開して行きますが、時間はかけ過ぎにさらっとというのが基本です。
このようにして行くと、生徒さんの食いつきはすこぶるいいです。
こういう蓄積が大切です。
月例となりました「対抗バトル」の結果は以下のようになりました。
(実力試験の部)
仙台市宮城野区 中学2年 W.Sくん
☆前回比 36位アップ
改善率24.00ポイント
(敢闘賞)
仙台市若林区 中学1年 Y.Oさん
上記2名に受賞が決定しました。
W.Sくんは敢闘賞を含めて常連となっています。
前回の実力試験ではやや失速が見られましたが、それを見事にはねのけました。
特に最近は「対抗バトル」での入賞をペースメーカーにして頑張っています。
その頑張りは、大いに賞賛します。
Y.Oさんは今回、敢闘賞です。
夜は早めに休んで、毎朝早く起きる朝勉スタイルをずっと保っています。
成績については、中間試験での校内順位20位から、8月の実力試験でトップ10入りを果たしました。
中間試験と実力試験は別に計算している関係上、「敢闘賞」としてその頑張りをたたえます。
二人ともよく学習し、よく頑張っています。
2人は英雄です。
そして頑張れば頑張るほど、その英雄としての光は増していきます。
努力し、確実に結果を出した2人に、心から賛辞を送ります。
先週から今週にかけて、現在担当している高校生の生徒さんたちは定期試験に臨んでいます。
高校1年生にとっては、高校入学後に行われる2度目の定期試験です。
彼らは入学当初に比べると、だいぶ高校生活にも慣れてきました。
それに伴い、数学の学習がやや落ち着きを見せています。
代わって彼らの頭痛の種の一つになっているのが、古文の文法です。
生徒さんの様子を見ていると、習得状況は各人各様なのはもちろんですが、「覚えなくてはならないことが多くて.....」という声に多く接します。
そこで今回は、文法を最小のエネルギーでものにするコツを3点お話しします。
まず、あの無味乾燥極まる平仮名が羅列してあるだけの文法表を貫く「法則」について理解しましょう。
その「法則」とは、次の2点に集約されます。
1.少数の「親玉」というべき規則がある。
2.「親玉」に「子分」となる例外事項がたくさんぶら下がっている。
わたしはこれまでいろんな外国語を勉強してきました。
その際、当然ながら、文法も勉強しました。
その経験からすると、どの言語でもそういうことが言えます。
文法全体を扱う一覧表を見てしまうと、それだけでやる気が萎えてしまいますが、少数の「親玉」となる規則をしっかり押さえれば、克服は可能です。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
以上のことを念頭に入れていただき、本論である「覚え方のコツ」に入ります。
第1点としては、少数の「親玉」となる規則を完璧にすることです。
99%ではいけません。
100%です。
それから「あれ、この活用はどう言うんだったっけ」と詰まるところがあってもいけません。
立て板に水のごとく、スラスラと確実に活用表を口頭で言えるようにする必要があります。
覚え方はたったの一つです。
「何回も口にして、たまに手で書いてみる」ことです。
「あんな意味不明なものを覚えられるのか?」と疑う人もいるかもしれません。
しかし、得体のしれない呪文のようなものであっても、繰り返し口にすると、通常の知能があれば、覚えられます。
多くの生徒さんは落語の「寿限無(じゅげむ)」という話を知っているでしょう。
あれに出てくる「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ 海砂利水魚の 水行末.....」という主人公の名前をかなり多くの人が程度の差こそあれ、そらんじることができます。
それができて、古文の活用表が覚えられない、などということはあり得ません。
要は「覚えようという気があるかないか」というそれだけです。
逃げてはいけません。
そしてありがたいことに、文法は単語と比べると、無味乾燥という欠点はあるものの、覚えなくてはいけない事項が格段に少なくて済みます。
ということは、確実に覚えれば、しっかり得点源にできるということです。
わたしはこれほど効率よく得点できる単元をほかに知りません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
第2点目としては、少数の「親玉」となる規則を習得したら、「対比」という考え方を利用することです。
これは先に述べた「子分」となる例外事項を覚えるのに有効な手立てです。
活用表には記してありませんが、およそ文法事項というのはこのようになっています。
<Aタイプ一家>
親玉 Aタイプ活用
子分1 「Aタイプ活用」とは、1点ここのみが違うだけ
子分2 「Aタイプ活用」とは、2点だけが違う
子分3 「Aタイプ活用」とは、1点だけが違い、子分1とはこの点が違う
活用表を見て絶望的になるのは、上記に記した「親玉、子分1、子分2、子分3」が同じスペースで書いてあるからです。
それゆえに活用表が無駄に膨れてしまっていますが、「親玉」と「子分」の関係を押さえれば、覚えるべき事項は格段に減ります。
文法表に限らず、何か似たようなものを記憶する際、違いをしっかり押さえるというのは、記憶の手段として、非常に有効です。
わたしたちは、例えば「今年の百貨店の売上は〇〇億円で、前年比△△%プラスです」というようなニュースをよく耳にしています。
「売上〇〇億円」という事実が、前年と比べることで、よりはっきりその意味を認識できます。
それと同様です。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
第3点目としては、文部省唱歌のような文語調の歌を活用することです。
今の生徒さんたちは、わたしがびっくりするほど、昔からの定番の歌を知りません。
「一体全体、音楽の授業で何を教えているんだか.....」と愚痴の一つもこぼしたくなってしまいそうです。
それはさておき、文語の歌には、文法を実際に活用している例が豊富に示されています。
よく英語や古文は「何度も音読する。できれば原文をそのまま暗記する」ということが学習法として語られています。
古文の場合は、教科書に出てくるものを覚えるというのも一つの方法ではあります。
加えて唱歌の活用という妙手があります。
例えば「ふるさと」という歌の1番は次の通りです。
兎 追ひし かの山
小鮒 釣りし かの川
夢は 今も 巡りて
忘れ難き ふるさと
たったこれだけのところに、古文で扱う文法事項が満載です。
旧制中学や旧制高等女学校といったところに淵源を持つ高校であれば、校歌や応援歌も文語調というところが多いでしょう。
それをしっかり活用するのです。
記憶においては、「既知の事項に関連付けて、記憶をより強固なものにする」という手法はよくとられます。
それを活用しない手はありません。
勉強は何も机の上で、まなじりを決して、ウンウンうなってやるだけのものではありません。
使えるものはできるかぎり使います。
以上、3点、試してみてください。
「え〜、これが『最小』のエネルギーなの? やること、いっぱい!!!」などと言わないでください(笑)
実生活においては、ドラえもんの道具のようなものはありません。
まじめにやれば、必ず今よりはよい結果になります。
ここ10年来、学校を卒業した後の就業状況に関するニュース、各種報道に接すると、以前に比べても理系学部の卒業生と文系学部のそれとの差が開いてきているようです。
わたし自身が法学部というバリバリ文系の出身なので、若干やっかみが入っているかもしれません。
わたしが10代だったころにも、こうした格差というのはありました。
とはいえ、就職の状況を見ていると、今ほどではなかったかなという気がしています。
わたしが仙台二高に在学中は、8クラス中、文系3クラス、理系5クラスという具合でした。
クラスの構成は選択科目の関係で、そのようになっていました。
しかし実際は、理系が文系よりもやや多いといった感じでした。
理系のクラスに所属していながら、結局は文系の学部に進んだという「隠れ文系」もいました。
現在の二高は、2年生が文系2クラス、理系6クラスという構成です。
今、ここは医学部医学科への進学を積極的に進めています。
一例をあげると、先生方が音頭を取って「医進会」という会を作り、いろんな企画を用意しています。
そのような活動が功を奏したのか、今春の東北大医学部医学科への合格者数が23名となっています。
わたしが高校生だったころとは時代が違っていますが、ここまで理系偏重というわけではありませんでした。
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(前回の続きです)
わたしは、ここで「文系」という言葉を使っていますが、「理系でない」といったほうが正確かもしれません。
なぜ「理高文低」となっているかについては、文科省のこの資料をご覧になっていただければ分かります。
それを見ると、次のようになっています。
大学設置数
平成14年 686校→平成24年 783校 (14%増)
理系学生の割合
平成14年 28.8%→平成24年 26.9%(1.9%減)
ここ10年で大学の数が14%増えた一方で、理系学生の割合は1.9%減となっています。
そして以前でも理系学生の割合は、全体の3割未満です。
こうした現状に対して、ご父兄や生徒さんたちは、今後どのように対応すればよいかということを2点、ご提言申し上げます。
第1点としては、理系はそうでない職種に比べて、希少価値がますます高くなってきているということです。
理系の仕事は文系に比べて、「余人をもって代えがたい」と判断され、専門性が高くなる傾向にあります。
「ナンバーワンでなくても、オンリーワン」というSMAPの歌の文句にあるようなことになりやすいのです。
その一方で、理系でない仕事は、必ずしも文系でなくてはできないというものではありません。
むしろ営業のセンスのほうが大事という側面があります。
実際、わたしは宮仕えをしていたころ、仙台市内にある牛たん専門店の営業をやっていたことがあります。
学生時代に学んだ学問を、そこでどうしても使わなくてはならなかったという場面に遭遇したことはありません。
つまり、わたしでなくても、いくらでも取り替えは利くということです。
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第2点目としては、第1点目を踏まえて、理系でないほうに進学するということであれば、なるべく早い段階で、「将来はこういう方面に進む」ということを意識すべきです。
最もよいのは、具体的な職種がハッキリしていることです。
これまでわたしの生徒さんには、医者、看護師、公務員、銀行員、犬のトリマー、美容師等々、具体的な職種を口にする生徒さんが多くいました。
ちょっと変わったところでは、納棺師になりたいので、その専門学校に行きたいという人がいました。
もしこういうことが決められないという場合は、「こういう仕事はできれば遠慮したい」という消去法でも構いません。
もちろん職種によっては、労働に対する十分な対価を得られないという場面も出てきます。
それが具体的にどういう職種であるかは、生徒さんたちよりご父兄がよくご存じのはずです。
わたしとしては、仮に生徒さんが学校を卒業し、待遇の面で不本意な業種に就かざるを得なくなったとしても、それはそれで生徒さん自身が選んだ結果であって、自らがそれをしっかり背負っていくべきだと考えています。
ですから、そのようになる前に、自らの手でいろんな情報を集めておく必要があります。
わたしのように勤務していたところを辞めても、そこから這い上がる力があれば、何とかなるものです。
そのようなときのために、いろんな感性を磨いておくといいでしょう。
そして学校選びというのも、それを見越してやって行けば、先行きよい結果が生じるでしょう。
文科省の指導要領の変更を受けて、今春から中学の教科書が5年ぶりに改訂されました。
その中で最も大きく変わったのが英語です。
これまで、中学校で扱う英単語の数が900語程度となっていたのが、このたびの改訂で1200語程度となりました。
中1生は新ルールで出発するので、さほど混乱はありません。
困ってしまうのが中2・中3の生徒さんです。
通常、新しく出てくる単語は教科書の外側にまとめて書いてあります。
しかし中2・中3の生徒さんの多くは「あれ? この単語、知らない..... でも新しい単語のところには書いてない.....」という場面にこれまで何度か遭遇しているはずです。
こういう単語は、今回の改訂で新たに増えたり、前の学年に繰り上がって「新しい単語」として扱われるようになったものです。
先般、中2の生徒さんとこういうやり取りがありました。
生徒さん: あれ、この単語、何ていう意味なんだろう?
知らない。
習ってない.....
菊池: この単語は.....という意味ですよ。
生徒さん: じゃあ、どうして「新しい単語」のところにないんですか?
菊池: それは、これこれこういう理由で、単語が増えたんです。
だから前の学年でやったことにされちゃったんですね。
生徒さん: じゃあ、自分は迷惑な年に生まれたってことですか?
「迷惑な年」というのは、言いえて妙ですが、気持ちとしてはよく理解できます。
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こうした課程の変更というのは、どこかしらでぶつかるものです。
わたしも中学2年のときに教科書が変更となり、同じような経験をしました。
しかし課程の変更というだけならば、まだ実害は少ないです。
入試制度変更の元年という年に当たってしまった場合は、心理的にもかなり大変になります。
例をあげますと、現在のセンター試験の前身である共通一次が始まったのは、昭和54(1979)年です。
昭和35(1960)年生まれの国公立大学受験生がこれの「元年」になります。
また、平成22(2010)年には、県立の全高校が共学化され、学区による区分けがなくなりました。
トップ層では前年までのデータがまるで使い物にならず、この年の入試は荒れに荒れました。
仙台二高が定員割れをし、仙台一高が約2倍という著しい不均衡を引き起こしました。
平成6(1994)年生まれのトップクラスの人たちは、たまたま「その年」に当たってしまいました。
わたしが高校生のときにも、数年単位で大学入試制度が変更になったという事例がありました。
もちろん、本人たちには何の責任もなく、またご両親もそのようなことを考えて子息をもうけたわけでもありません。
わたしが申し上げたいのは、こういう教育課程・入試制度の変更というのは、往々にして起こるものだということです。
そしてそれへの心積もりをしっかりとしておく必要があります。
大きな制度改編の前には、必ず周知期間が設けられます。
また場合によっては激減緩和措置がとられます。
幸いにして受験生が試験を受ける条件はみな同じです。
情報を早めに手に入れることが肝要です。
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