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近年では当地でも、二華や青陵といった公立の中高一貫校ができて、大都市圏のような中学受験も盛んになってきました。
もちろん中学受験は誰もが考えているわけではありません。
「小学生のうちは、ガリガリ勉強させるより、スポーツをさせたりしたほうがいい」というお考えのご父兄も多いことでしょう。
今回のコラムでは、小学生のうちからしっかり勉強しておくのがいいのか、そうでないほうがいいのか、という点について、わたしなりの考えを記します。
まず、わたしが感じるのは、ご父兄は勉強の大切さをよく理解しつつも、子息に勉強させることを、心のどこかで罪悪視しているのではないかということです。
例えば、サッカーのクラブチームに入って、毎日へとへとまで練習しているという小学生を持つご父兄と、学習塾で毎日へとへとまで勉強しているという小学生を持つご父兄と、どちらが「より人間味がある」と思われるか、ということをお考えになってみてください。
「スポーツでへとへとになるのはよいことで、勉強でへとへとになるのは酷な話だ」と、心のどこかで思っていらっしゃらないでしょうか?
そう感じるのは、たぶん感情によるものであり、理論で説明はできません。
ご父兄に知っていただきたいのは、スポーツでも勉強でも、それが過度になってしまえば、子供が受け止める「へとへと感」には、どちらも変わりはないということです。
わたしのような受験関係者からみると、「勉強させられてかわいそうな生徒」と「勉強のことは二の次にされてかわいそうな生徒」では、「二の次にされてかわいそうな生徒」の数が圧倒的に多いです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしは経験がないので分かりませんが、理解できない授業をじっとして聴いていなくてはならないというのは、相当な苦痛であろうと思うのです。
それに高校受験は、ホンネの部分はともかく、あくまで「お勉強」の部分が問われます。
「うちは子供はスポーツのクラブチームに入っています。
毎日、その練習があります。
勉強をやる時間はほとんどありません。
土曜や日曜は試合です。
だから成績もずっと低迷しています。
指導をお願いしますので、何とかしてください」
というご家庭は、受験関係者にとっては珍しいことではありません。
ここでご父兄が、「スポーツはやっていても、勉強がまず第一だ」というふうにお考えならば、ご家庭との信頼関係は保てます。
しかしそういうお考えなしに、「スポーツ優先」の姿勢は変えずに「あとは指導をしてくれる方にお任せします」というふうにお考えならば、子息の成績が改善するということはありません。
わたしが家庭教師の派遣会社から独立してからは、クラブチームに所属している子息がいるご家庭でも「勉強第一」ということを理解してくださっているご家庭ばかりなので、指導は円滑に進んでいます。
派遣会社にいたころは、そうでないご家庭が少なからずありました。
以上を考察すると、わたしの考えとしては、小学生は受験がなくても「しっかり勉強」あるいは「勉強の習慣」をつけておくべきであること、そして本人の能力を超えたものは、スポーツでも勉強でも、本人の負担は同じ、ということです。
昨日、「春休み7時間学習会」を行いました。
今までの学習会は5時間を2日行うという日程でしたが、今回は7時間を1日でというふうにしました。
集まった生徒さんは3名です。
お互いの挨拶もそこそこに早速学習開始です!
休憩時間には、「わたしからの差し入れ」ということで、カプリコやチョコパイを食べました。
また休み時間には、恒例となったカードゲームのUNO大会をやりました。
5回やって、最優秀成績者には、豪華賞品(!)をプレゼントしました。
今回、1日に7時間の勉強会は始めてやってみました。
正直どんなものだろうと思っていましたが、お昼後にややダレがあったものの、しっかりやり抜くことができました。
成績アップのためには、一にも二にも勉強量をこなさなくてはなりません。
その際の「勉強量」とは、学校の授業のように先生の話を受け身の状態で聞いているだけではダメです。
実際に頭を使って、自分の手で字を書くという「自学自習」の時間をいかに確保するかが極めて大切です。
そうこうしている間に「ちょうど時間となりました」
やり終えてホッとしているわたしです。
終わった瞬間の生徒さんの「快い疲れ」の様子を目にして、わたしもやったかいがありました。
学習会はまた企画します。
これまで職業柄、成績が低迷しているという生徒さん、そして子息のそういう現状に困っている、あるいは不満を抱いているというご父兄を数多く見てまいりました。
ここで、
「成績が伸びない原因は、親にあるのでしょうか? それとも子息にあるのでしょうか?」
という問いを発したとしたら、ご父兄はどのようにお感じになりますでしょうか?
「そりゃあ、勉強しているのはうちの子供だから、まずは本人だろうなあ。
『親に原因がある』って、はて、どういうことなんだろう?
まあ、そう言われれば、何かはあるのかもしれないなあ」
とお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか?
お考えになるところはそれぞれだと思いますが、以下、少々の時間、お付き合いください。
まず、成績が伸びない原因は、まずもって生徒さん本人にあります。
「そりゃあ、勉強しているのはうちの子供だから、まずは本人だろうなあ」というお考えになるのは、当然です。
生徒さん本人に原因があるというのは、大別ふたつです。
まず一点目が、生徒さんの学習量が足りていない、つまりは勉強不足ということです。
これは非常にわかりやすい原因で、ご父兄もご納得くださるでしょう。
わたしがあえて申すまでもないことです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
そして二点目が、生徒さんの能力がほぼ限界に達しているという場合です。
人間だれしも能力以上のことはできません。
それはご父兄もよくお分かりのはずで、「うちの子供にここ以上は無理だな」というのは何となく感じていらっしゃるでしょう。
わたしも指導をしていて、「この生徒さんなら、いろいろ努力はしているようだけれど、だいたいこの辺が頭打ちかなあ」などと感じることはしばしばあります。
生徒さんには、「もって生まれた器(うつわ)」があり、それはすでに固まっています。
何人たりとも、それを修正することはできません。
ここで問題となるのは、「これ以上は無理」の「これ以上」の基準です。
ご父兄がお考えになる「これ以上」の基準は、生徒さん本人の実際の能力から見ると、得てして高い場合が多いのです。
そこには、自分が子供のころにとった成績のこと、そして「子供には最低でもこのラインは行ってほしい」という願望が加わります。
第三者から見ると、それは俗にいう「親の欲目」ということになるのでしょうが、そのようにお考えになるのは、親として当然です。
「親の欲目」がなければ、子育てはできません。
わたしも親として、その気持ちはよく理解できます。
しかし、実際問題として、生徒さんの能力は、得てして「最低ライン」より下回ることが多いということをご理解ください。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
以上は、成績が伸びない原因が生徒さん本人にある場合です。
では、「親の責任」とは、どのようなものでしょうか。
「親の責任」とは、ご父兄の物事全般に対する考え方です。
例えば、子息に完璧を求め過ぎて、子息の足りないところをなじってばかりで、褒めることがないという姿勢があります。
また携帯電話やゲームの類を全く制限なしに与えて、その結果、子息がそちらの方向にばかり頭が行って勉強しないというのもあります。
「うちは部活動・クラブチームでの活動が最優先」というご家庭は、その点を改めない限り、子息の成績が向上することはありません。
ここで、「親の責任」について、非常に難しいのは、ご父兄自身が上記のようなことを「親の責任」だと感じていない、あるいは無自覚であるという点です。
成績の伸びない原因が学習量の不足にあるならば、それは特定が容易です。
生徒さん本人が実は一番それを理解しています。
最大の問題は、「親の責任」を、ご父兄自身が自覚していないことです。
ご父兄からすると、そういうことを指摘されることはまずないし、何よりそれは自分の性格とか人生観がかかわってくることです。
それゆえ、それは容易に改まることがありません。
大切なのは、ご父兄自身が「もしかしたら、何か自分に足りないところがあるのかもしれない」と考えてみることです。
そうすれば、何がしかの活路は見いだせるでしょう。
「子供が勉強せず、スマートフォンやゲームばかりしている」
「そういう時間を勉強に振り向けてほしい」
という声は、職業柄もあって、頻繁に耳にします。
「そんなに困っているのであれば、処分するとか解約するとかすればいいのではないか」
と思うこともありますが、多くのご父兄はそこまではお考えになっていないようです。
「友達との関係もあるし.....
好きなものをまるっきり取り上げてしまうのも、ちょっとかわいそうだし.....
取り上げたところで、その時間を勉強に振り向けるか分からないし.....」
というのがご父兄のホンネなのではないでしょうか。
そこで、高校生の子供を持つ親として、また受験関係者として、どういう対処法があるのかということを述べてみることにいたします。
まず、去る3月26日に、わたしは、仙台市宮城野区の岩切で、弘道ゼミナールを主宰されている吉野先生のおっしゃったことをリツイートする形で取り上げました。
内容は以下の通りです。
〜スマホやゲームに熱中している子供に、「すぐやめて勉強しなさい」と言うと反発されるが、「10分経ったら勉強しなさい」だと意外と言うことをきく。
朝三暮四の猿と同じレベルの話なのだが、まあ、だいたいはそんなもの。〜
これは非常に核心を突いたご発言です。
実はわたしも子供が小さいころにこの種の言い方をしていました。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
子供とのやり取りはこんな感じです。
菊池: さて、〇〇(子供の名)、ゲームはそれくらいにして、そろそろ宿題、やったほうがいいなあ。今やるほうがいいか? それとも10分してからやったほうがいいか?
子供: 10分してから!
菊池: そうか。分かった。それまではじゃあ、やってもいいよ。10分たったら、宿題やるようにな。約束できるか?
子供: 約束できる!
菊池: よし、分かった。
こういうふうにすると、子供は意外なほどスッキリと机に向かうようになりました。
そして、約束を守った子供にはこう言いました。
「お! ちゃんと約束守ったな。よし。偉いぞ。しっかりやりなさい」
どうして上記のようにすると、円滑に事が進むのか、子供の立場になって考えてみます。
子供も実は、宿題をきちんとしなくてはならないことは十分に分かっています。
しかし、宿題はおもしろおかしいことではないので、どうしても気乗りしません。
そういうところに、親から「さっさとやれ!」と言われると、ますますやる気がなくなってしまいます。
「今、やろうと思ってたのに〜」というアレです(笑)
そこで、10分とはいえ、親が自分の自由時間を認めてくれたとなれば、
「親は自分の自由を認めてくれたんだな」
と感じ、今度は親の要求に応じようとします。
心理学でいう「好意返報感」です。
そしてきちんと約束を果たした子供には、ダメ押しのような形で、褒め言葉をかけます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前回紹介したのは、うまく行ったケースですが、子供の性格上、なかなかそういかない場合もあるでしょう。
年齢が上がってくると、親の言うことを素直に聞くときばかりではないはずです。
そういう場合への対処法として、以下のことを提案します。
まず、第一点目は、スマートフォン・ゲーム類のルールをきちんと決めることです。
やる時間は1日1時間以内にする.....
自分の部屋ではやらないで、親の目の届くところでやる.....
充電器は親が預かっておく.....
など、子供と話し合った上で、取り決めをします。
どういうふうに取り決めるか、きついものがいいのか、緩いほうがいいのか、そういうのは、子供の性格とこれまでの子育ての経緯をもとにそれぞれでいいでしょう。
第二点目は、ルールを決めただけではダメで、もしそれが守られないときのことを決めておくことです。
何がしかの罰則を決めておくとよいでしょう。
最も効果的なのは、ルールを守らないときには、スマートフォンの解約、ゲーム類を処分するというものです。
そもそもスマートフォンやゲームを与えたのはご父兄です。
子供の小遣いで買ったとか、お年玉の貯金を使ったとかいうことはあるでしょうが、基本的に自分で稼いだお金ではないはずです。
であるなら、解約・処分も親の考え方ひとつ、というのでよかろうと思います。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
第三点目は、ルールが守られないときの対抗措置はためらいなく実行に移すことです。
罰則があるにもかかわらず、ルールを破るということは、「罰則は決めたものの、そこまではやらないだろう」と子供がたかをくくっているからです。
スマートフォンの解約やゲームの処分は、いざ実施する段になると、ちょっとした勇気がいるでしょう。
しかし必要なのは、子供に「断固たる姿勢」を見せることです。
「あれほど言っているのに、約束を破ったのだから、こちらも取り決めを粛々と実行するのみ!」です。
以前担当したご家庭で、生徒さんがスマートフォンやゲーム類にかまけて、勉強をしないので、それらをどこかに隠してしまうというご父兄がいらっしゃいました。
それで、生徒さんは必死にそれを探し当てます。(笑)
「困ったもんだ」と言いながら、どこかまだ甘いんです。
そういうイタチごっこのようなことをするより、ルールを決めて、スパッと解約・処分をしてしまったほうが話は早いです。
「初犯」ということで、情状酌量の上、1回は目をつぶる、ということも方策としてはあり得ます。
しかし2回目を許してはいけません。
ご父兄がきちんと対処すれば、子供は今後ルールを破らないでしょう。
必要なのは、勉強しないこと以上に、「ルールをしっかり守る」「親がきちんとした姿勢を見せる」ことです。
今後の子息の将来を考えて、適切な対処が求められます。
先般、ツイッターで教科書ガイドに関して述べたところ、ご同業の方々から「賛成」「英語については否定的」など、コメントが寄せられました。
わたしはコメントが寄せられるとは考えておりませんでしたので、ちょっとビックリしています。
逆に言うと、教科書ガイドの存在は、それだけ関心を持たれる対象なのでしょう。
新学期で教科書が新しく配布されるこの時期、教科書ガイドをどのように使えば効果的かということを述べることにいたします。
まず、教科書ガイドに関してわたしの考えを述べると「極めて有効」です。
特に数学は必須と考えています。
英語に関しては、あったほうが便利だと考えています。
特に予習には大変便利です。
その他の教科については、高校で国語の古典を学習する際にあったほうがよいと思いますが、ほかは特に必要を感じたことはありません。
教科書ガイドは特に理系の科目の予習の際に、非常に大きな力を発揮します。
そこには練習問題の答えや解説が残らず書いてあります。
また答えを導くための途中式も詳しく記載してあります。
わたしも数学の指導の際には、教科書ガイドを使って、教科書の練習問題を解く演習をすることがよくあります。
また課題も教科書から出すことが多いです。
生徒さんが答え合わせをするときに、教科書ガイドは欠かせません。
とにかく学習の原点は教科書にあります。
教科書にある練習問題が解けずして、試験に立ち向かうことはできません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
英語に関してもそうです。
中学校で使用する英語の教科書ガイドには、教科書の英文・単語の訳が残らず掲載されています。
特に中学英語のように語学の初期段階においては、手元に英文・単語の訳があるのは自学自習の際に必要です。
ただここが「あまりに親切すぎる」と、指導者が考えてしまう点です。
考えられる欠点としては、
単語や熟語など、調べる手間を惜しむようになってしまう.....
掲載してある訳文を見てしまうと、自分の頭で考えなくなり、教科書ガイドに頼り切ってしまう.....
訳文が非常にきれいなので、英語の単語と日本語のつながりが見えにくくなってしまう.....
などです。
上記のような欠点があることはわたしも十二分に承知しています。
しかしそれでもなお、わたしは総合的に見た場合、益の部分が多いと感じています。
例えば、単語や熟語など、調べる手間を惜しむようになってしまうという点については、「勉強とは手間暇をかけてやるものである」という固定観念があるように思えます。
そもそも単語や熟語を調べるのは、「作業」であり「学習の前段階」であって、「勉強そのもの」ではありません。
もちろん「ある単語を調べているうちに、ほかの単語とのつながりも覚えるようになるから、単語調べは有用」という意見もあるでしょう。
しかし、それは、わたしに言わせると、高校に入学してからで十分です。
中学の段階では、基本的な単語を何度も読んだり、書いたり、使ったりして「確実に覚える」ことのほうが重要です。
優先順位を取り違えることがあってはなりません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
「掲載してある訳文を見てしまうと、自分の頭で考えなくなり、教科書ガイドに頼り切ってしまう」という懸念もあります。
わたしの見る限り、成績の評定が4や5を取る生徒さんであれば、十分に教科書ガイドの利点を生かした使い方をしています。
それにそもそも彼らは教科書ガイドに頼っているようでもありません。
2や1(1という人はほとんどいませんが)という生徒さんならば、教科書ガイドなくしては、学校での英語の授業についていけないでしょう。
それに彼らは、仮に教科書ガイドを与えても、参照したりする形跡がほとんどなかったりすることがしばしばです。
つまり自分の英語を何とかしようとか、分かるようになろうとかいう意識が希薄だったりするので、「悪用」の心配もありません。(笑)
よって「教科書ガイドに頼り切る」ことが心配されるのは、3くらいにある生徒さんです。
ただ、わたしの生徒さんは幸いなことに、英語の教科書ガイドに毒されている人はいませんでした。
もちろん、教科書ガイドの類は、「悪用」しようと思えばいくらでもできます。
しかしそういう生徒さんは、高校入試で手痛いしっぺ返しを食うだけです。
内申点が上がらないとか、試験で結果が出なかったということになれば、それは本人の意識の問題であり、教科書ガイドのせいではありません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
教科書ガイドの欠点としては、「手間暇を惜しむ」ということではなく、「大した労力を使わずに、授業が分かった気になってしまう」という点にあります。
評定2くらいの生徒さんならば、「授業が分かった気になる」というのは重要なことです。
わたしのような者から見れば、彼らに足りないところが多々あることは確かです。
しかし、そもそも授業が分かったという気にならなければ、学習意欲も湧かないでしょう。
そうした意味で彼らが教科書ガイドを使うことは有効です。
もっとも教科書ガイドを使って、太刀打ちできるのは、定期試験がせいぜいです。
入試のように範囲の広い試験には直接に役立つことはないでしょう。
さはさりながら、定期試験でいい点数を取れば、その生徒さんの志気は上がります。
相撲取りに最も効く薬は本場所での白星と言いますが、生徒さんにとっての最良の薬は「試験でのよい成績」です。
そしてそれは、わたしのような受験関係者にとっても「体に効く最もよい薬」でもあります(笑)
よい成績を取るから、やる気が出てきます。
そしてやる気が出るから、「次のステップに行こう」と考えることができるのです。
教科書ガイドを上手に使って、試験の点数を上げてください。
定期試験や模擬試験で、こまめに「勝ち」を積み重ねていくことが、入試の合格にもつながっていくでしょう。
このコラムをご覧になってくださっている方は、元から仙台・宮城にお住まいの方、ここ10年の間に新たにお住まいになった方、いろいろいらっしゃるでしょう。
ここ10年の間に当地にお住まいになった方には、学校間のランキングは「今の状態」しかご存じないはずです。
その間に、学校間のランキングは以前とずいぶん様変わりしました。
しかし、わたしのような受験関係者を除くと、宮城県内の多くの大人たちは、「昔の姿」しか知りません。
それゆえに、例えば就職などで社会人になろうとするとき、もしくは社会人になった場合、周りの大人たちがその人物を評価するとき、出身校を過大に、あるいは過少に評価していまうということがあり得ます。
そしてそういう「昔の姿」しか知らない大人が、結構な力を持っていたりします。
もちろん、仙台あたりは人の出入りが結構あって、「そんなことはどうでもいい」という大人もいるでしょう。
また東京に行ってしまえば、宮城県内での学校の評価なぞは、考慮されません。
さはさりながら、県内を基盤にして社会に出たいという人にとっては、「昔の姿」を知ることで、今後の学校選びに役立つ面があるのではないかと考え、今回、このようなコラムを書くことにしました。
前置きが長くなってしまいましたが、次回以降に、「昔の姿」を具体的に述べていくことにします。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
まず、中学入試についてですが、東北学院が男子向け、白百合・宮城学院が女子向けで、良家の子女が通うというイメージでした。
今を時めく二華・青陵の中学受験の歴史は10年ありません。
「昔の姿」しか知らない大人は、「二華・青陵、???」です。
「二華って、二女高が、東北学院とか、白百合のように中高一貫になったんだ」と言えば、ようやく納得してくれるはずです(笑)
青陵については、「女子商が仙商と合併し、その跡地の校舎が青陵になった」と言えば、具体的なイメージを持ってもらえるでしょう。
「女子商」というのは、「仙台女子商業高校」です。
男女別学を基本としていた当地の高校では、「仙台商業=男子校」「女子商=女子校」でした。
もっとも青陵と女子商は、建物こそ同じでも、中身はまるで違いますが.....
高校受験については、60歳以上の人にとっては、
(男子)一高>二高>三高 (女子)一女>二女
です。
また60から下の人だと、
(男子)二高≧一高>三高≧向山 (女子)一女≧二女>向山
です。
「一女」は宮城一高、「二女」は仙台二華です。
ここで60歳以上の人と、そこから下とで微妙に評価が違うのは、昭和52(1977)年より、学区制が導入されたためです。
仙台駅を境にして北のほうの中学からは、一高・二女が受験できず、南のほうの中学からは、二高・一女が受験できなくなりました。
今は、「全県一区制」となり、昔に戻った形になっています。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
私立高校に関しては、多くの学校が共学になったり、特進コースとかいうような、いろんなコース制を採用しています。
以前はそのようなものがなく、「普通科」「商業科」「家政科」というように、実にシンプルで分かりやすいネーミングでした。
その中で、最も変わったのがウルスラです。
ある一定以上の年齢の人だと、ウルスラと言えば、女子校で、平均にちょっと届かない人たちが行くという、今でいう「尚志コース」のイメージしかありません。
共学になって、しかもタイプⅠというコースは、私立高校の中で県内最難関になっていて、ナンバースクール受験者でも合格が難しくなっていると聞いたら、一様に驚くでしょう。
私立高校の男女別は以下の通りです。
(男子校)東北学院、東北学院榴ヶ岡、育英、城南、東北
(女子校)白百合、宮城学院、尚絅、ウルスラ、常盤木、生文、明成、ドミニコ、聖和
東北学院、白百合、宮城学院は今でも別学を続けています。
以上に述べたことは、「昔話」であって、「だから何だ」と言われてしまえばそれまでです。
しかし、「学校は卒業してからが長い」です。
社会に出たての頃はそうでもないですが、取引先の社長が自分のOBで、本来ならまとまらないような商談がまとまったとかいう話は結構あちこちに転がっています。
もちろん、「過去の姿」にばかり縛られているわけではないので、その辺は誤解なきようお願いいたします。
このたび中学1年生になった生徒さんたちは、小学校のころとはあらゆる側面で勝手が違い、非常に疲れていると思います。
また新中1生をお持ちのご父兄も、子息の疲れ具合をよく感じているはずです。
中学校に上がると、小学校のころにはなかったものに、定期試験・内申書があります。
この点に関しては、多くのご父兄はよくお分かりのはずです。
そして受験産業の「中1から高校入試はすでに始まっています! だから早めの対策を!」という宣伝を目にして、「そのとおりだから、今のうちからきっちり対策をしておこう」とお考えのご父兄、「受験産業が『売らんかな』で、またやってるんだろう」と軽く受け流しているご父兄、いろいろいらっしゃるでしょう。
今回は、内申書を正しく知って、正しく怖がっていただくために、3点、申し上げます。
まず、受験産業が語る「中1から高校入試はすでに始まっています! だから早めの対策を!」というのは、真実です。
わたしも受験産業の一員なので、あまり説得力が感じられないかもしれませんが、受験産業の言うことすべてが宣伝というわけではありません(笑)
これは特に宮城県の公立高校によく当てはまります。
本県の公立高校の入試は、内申点が中1の成績からカウントされるためです。
ちなみに東北6県の公立高校の内申制度は以下のようになっています。
(中1〜中3までをカウント)
青森、岩手、宮城、福島
(中3のみをカウント)
山形、秋田
(次回に続きます)
(前回の続きです)
このうち、岩手は学年が上がるにつれて、内申点が高く評価される仕組みになっています。
宮城の場合、各学年とも同じ評価です。
ということは、中3の終わりという入試の前に、すでに差がついてしまっていることになります。
よって、中3の終わりになってラストスパートをかけてみても、内申点が低ければ、その生徒さんはハンディキャップを背負ってしまいます。
実際、中3になってから、いい感じで伸びを見せている生徒さんが、1年生のころの内申に縛られて、現在の実力相応校に出願をためらう、というケースはよくあります。
受験関係者が「中1から高校入試はすでに始まっています!」と言っているのはそのためです。
第2点目として、ご父兄が中学生のころと比べると、通信票の評定はかなり甘くなっています。
以前のコラムにも書きましたが、「昔の評価」と「今の評価」の相違は、わたしの感覚ですと以下のようなものです。
(今の5)...昔の4.5以上
(今の4)...昔の3.5〜4.5
(今の3)...昔の2.5〜3.5
(今の2)...昔の1〜2.5
(今の1)...不登校など特殊な場合
評価に小数点はありませんが、それだけ評価がかさ上げされています。
だいたい、今の評定でオール3ですと、普通の公立中学校で、100人中75〜85番くらいの席次にある生徒さんがこのくらいの成績です。
ですから、「オール3だから、『真ん中くらい』ってことなんだね」ということにはなりません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
こうなった原因は、評価の方式が改められたからです。
極端に言うと、今は全員が5という評価でも構わない、という制度です。
仙台二高の前期選抜における出願条件は、平均評定が4.8以上です。
これは1科目だけに4が許されて、残りはすべて5でなくてはなりません。
そういう人が少なくとも、今春、274人いるのです。
「評定が甘くなっている」ということがお分かりいただけているものと思います。
第3点として、定期試験の出来が内申に最も大きな影響を与えるのは言うまでもありませんが、それだけで内申点は決まりません。
宿題をきちんとやるとか、提出物を遅れずに提出するとかそういったものです。
この当たり前のことができていない中学生は山のようにいます。
そういう人が高い内申点を得ることはありません。
わたしは職業柄、宿題・提出物の類をやろうとしない中学生をたくさん見てきました。
特に女子に比べ、男子にその割合が高いです。
配られたプリントや副教材をなくして平然としていられる神経がわたしには理解不能ですが、そういう人は内申点以前の話です。
今まで述べてきたのは、結局のところ、「当たり前のことを当たり前のようにやる」ということです。
そうすれば、内申書、恐るに足らずです。
すでにツイッターでは述べたとおり、今春行われた公立高校入試の平均点が発表されました。
詳細はこちらからお入りください。
この結果を見ると、一言で申せば「前年並み」です。
以下、ここ3年の平均点の推移を示します。
<前期>
186.9→162.9→(今回)167.1
<後期>
307.6→283.0→(今回)283.7
前々回、つまり今の高3生が受験したときには、「さすがにこれでは平均点が高すぎ!」という声があちこちから聞こえてきました。
出題者はそうした声に配慮したのか、昨年少し引き締めを図り、それが今年も同じように続いています。
この平均点の結果に、県教委としては、ガッツポーズをしたいところなのではないでしょうか(笑)
ご父兄や受験生が最も気になるであろう「今後の予想」についてですが、全体としての難易度は、ここしばらく「現在並みの難易度」に落ち着くものとわたしは考えています。
ただ変わるとすれば、英語です。
というのも、英語は数学に比べて、平均点がかなり高くなってしまっているからです。
今年度の英語・数学の平均点は以下の通りです。
<前期>
英語63.3 数学50.8
<後期>
英語64.0 数学45.4
前期で12.5点、後期で18.6点の差があります。
英語と数学の科目の性質上、やむを得ないところはあるのかもしれませんが、わたしの生徒さんでも、みやぎ模試偏差値55以上の生徒さんは、全員が英語で90点以上をとっています。
これが果たして、入試としていいものなのかどうか、考えさせられます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
実は英語に関しては、今年の中3生そして中2生は教育課程変更の「移行期」にぶつかっています。
教科書は一昨年のものと比べると、単語や文章の量が格段に多くなっています。
それは指導に当たっている者としても、はっきり認識できます。
今年の出題者は「移行期対策」として、少し遠慮したのかなと感じています。
それゆえ今後は、少し引き締めにかかってくる、つまり難化するのではないかと考えています。
他の科目で平均点を少し上げて、「全体としては変わらない」としたい、というところが、県教委のホンネなのではないかと推測します。
そして今後の全体の動向としては、「前期選抜の廃止以外は手を付けない」となるはずです。
わたしは県のホームページに記載されている審議委員会の議事録すべてを読みました。
そこで分かるのは、「前期選抜の廃止以外は手を付けない」というホンネです。
ほかにいろいろ「改革」してしまうと、「じゃあ、平成25年に導入されたばかりの入試『改革』は何だったのか」ということになりかねません。
今の中1生の受験から前期選抜が実質廃止され、一本化されることが決定されたのは、わたしに言わせると「異例の短期間での変更」です。
それは前期選抜の負担が非常に大きかったということの証左です。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前期選抜の負担については、特に高校から「負担が大きい」という声が大きかったようです。
高校の先生方の労働組合である高教組のサイトを見ても、「前期選抜廃止」を訴えています。
本来ですと、この種のものは定着の度合いを見て、そこから数年かけて改めていくものですが、そんなことを言っていられる余裕もなくなってしまったのでしょう。
何しろ、委員会で行われている議論のほとんどが、「前期選抜という足かせをどう処理していくか」ということに費やされているのです。
ご父兄や受験生からすると、議論してほしいことはこれ以外にもたくさんあるはずです。
とても健全な姿とは言えません。
県教委は口が裂けても言いませんが、前期選抜は大きな失策だったと考えているはずです。
ですので、彼らのホンネは「これ以上他の問題に手を付けたくない」のです。
よって内申点の問題だとか、不登校の生徒に対する施策のような重要案件に手が付けられるのは、まだまだ先になる見込みです。
とはいうものの、県教委に声を伝え続けていくことは重要なことだと考えています。
「所詮はガス抜き」という批判もあるかもしれませんが、声が大きくなれば、県教委としてもこたえざるを得ません。
入試制度にベストはありませんが、ベターはあるはずだからです。
わたしは指導の際、「取りこぼしをしないこと」の大切さを口酸っぱく言っています。
「取りこぼしをしない」というのは、その人の力から言って、得点できるはずの問題を確実に得点することを意味します。
上位層に行けば行くほど、その辺に対する注意力は増しますが、逆に下に行けば行くほど、ミスには無頓着です。
「取りこぼしをしないこと」の大切さを示す例として、春休みに行われた新中2生向け「みやぎ模試」を取り上げます。
そこでは次のような数字が判明しています。
平均点...304点
正答率50%以上の問題をすべて得点したとき.....353点
正答率40%以上の問題をすべて得点したとき.....432点
正答率30%以上の問題をすべて得点したとき.....470点
平均点が304点というのは、公立高校入試の入試に比べると20点ほど高いです。
一昨年の公立高校入試の平均点がこのくらいでしたから、やや易と言えるでしょう。
上記の数字を見れば分かるように、正答率50%つまり2人に1人が正解できている問題をすべて解けると、353点になります。
平均点とは50点弱の開きがあります。
必ずしも平均点=真ん中の人というわけではありませんが、平均点プラプラくらいの人は、いかに取りこぼしをしているか、ということがよく分かります。
そして正答率40以上の問題をすべて解答できれば、432点という高得点を得られます。
この試験では、仙台一高のボーダーくらいに該当する得点になっています。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
正答率50%、40%というのは、それほどの難問ではありません。
「取りこぼしをしないこと」の大切さがよく分かるはずです。
上述した内容に補足しますと、正答率は科目ごとに異なっています。
分けても、英語と数学が大きな対照を見せています。
(数学)
平均点...53点
正答率50%以上の問題...48点
正答率40%以上の問題...74点
正答率30%以上の問題...90点
(英語)
平均点...66点
正答率50%以上の問題...73点
正答率40%以上の問題...91点
正答率30%以上の問題...97点
上記の数字を見ると、平均点に満たない人の場合、数学では差がつかず、英語で差がつくことが分かります。
逆に上位層の場合、カギを握るのは数学の出来です。
では、「いかにして取りこぼしをしないか」ということですが、これは一にも二にも「学習量を増やす」こと以外にありません。
プロ野球選手のような人たちでさえ、「珍プレー」の番組が組まれてしまうほど、おかしなミス・エラーをしたりするのです。
彼らは野球で収入を得ている人であり、そういう人たちにしてすらそうなのです。
ましてや受験生は「ミスしないように注意する」という心構えだけではミスを乗り切れません。
そこに学習量という要素がなくてはなりません。
「な〜んだ! 結局はもっと勉強しろっていうことなのね」という声が聞こえてきそうですが、まさしくその通りです。
逆にそれ以外の方法をわたしは知りません。
昨年12月21日付のコラムで、「〇〇は自信ある」と答える生徒さんに関して書きました。
「〇〇は自信ある」というのは、「数学の関数は自信ある!」「英語の過去形は自信ある!」という形で生徒さんが言ってくることを指します。
この趣旨は、「〇〇は自信ある」と答えているうちは、まだ学習量が足りていないのだ、というふうに、どちらかというとその生徒さんのマイナス面を強調する内容になっていました。
先日、ある受験関係者がお書きになったものを読んで、「これは認識を改めてプラス評価をしなくてはならないなあ」と考えるに至った次第です。
まずもって、「〇〇は自信ある」と答える生徒さんは、平均に達しておらず、勉強が苦手というのがほとんどです。
それゆえ、「『〇〇は自信ある』なんて、そんな簡単に言っちゃっていいの? そんなに甘いもんじゃないのに」という具合に、考えてきました。
しかし、よく振り返ってみると、そう答える生徒さんは、少なくともその分野に取り組む際には、非常に生き生きとしています。
そしてやる気をもって学習に臨んでいます。
受験に臨む学習で最も大切なのは、「やる気」です。
それを思えば、いくらわたしの目から見て足りないところが多かったとしても、本人はやる気をもって臨んでいるのだから、それをプラスに評価していこうと思うに至りました。
そして足らないところがあれば、それをしっかり補って少しでもよい点が取れるようにしていくほうがよい結果となります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
わたしは職業柄、生徒さんを見るとき、マイナス評価をしがちです。
人間だれしも長所、短所がありますが、短所はよく見えます。
だからこそ、会社の飲み会は、上司の悪口大会と化すわけです(笑)
「君のここがまだ足りていない」という言い方は、上位層の生徒さんに対してならば、非常に有効です。
1点の争いにしのぎを削る彼らは、「自分はまだまだ足りていない」ということを認識したうえでないと、受験を乗り切っていけません。
受験とは、1点1点の争いであることは、成績の良しあしに関係なく当てはまります。
しかし「自分はここが足りていない」ということを改めてしっかり認識する必要があるのは、上位層の生徒さんたちであり、勉強の苦手な生徒さんではありません。
だいたいにして、勉強の苦手な生徒さんは、自分ができていないことを十分に知っているからです。
であるなら、彼らに必要なのは、「足りないところ」の認識ではなく、「少しは何とかなりそうなところ」の認識です。
勉強が苦手な生徒さんほど、プラスの面に目配りをしなくてはなりません。
そう考えると、そういう生徒さんには、「分からないところ」ではなく、「すでに分かっているところ」「少しは何とかなりそうなところ」を中心に演習させるほうが、よい結果になるはずです。
「いい点数のテスト」ほど彼らの志気を上げるものはないわけですから.....
「成績が上がっていかない理由」は、その生徒さんによっていろいろな原因があります。
ご父兄としても、非常に気が揉めるところです。
.....うちの子供は勉強のやり方が悪いのではないか?
.....勉強のしかたがよく分かっていないのではないか?
ご父兄はいろいろな原因を考えます。
その中で最も多い原因は「勉強不足」です。
つまり勉強する量が足りていないのです。
いくら「頭がいい」人でも、ある一定以上の学習量を確保することなしに好成績を上げることはできません。
そこで出てくる疑問は「ではどのくらいやれば『勉強量は足りている』と言えるのか」ということです。
「勉強量が足りているかどうか」というのは、客観的に把握しようがありません。
そこで、「勉強量が不足しているかどうか」を判断する基準として、以下3点のことを挙げます。
第一点目は、「自分としては勉強をしていないわけではないのに.....」と感じており、成績が上がらないとすれば、その原因をまずもって「量の不足」と自覚すべきということです。
成績が上がらない原因は、やり方が悪かったり、あるいは前にやったことを十分に自分のものにできずにいることだったりもします。
が、まず疑うべきは「量の不足」です。
そしてしっかり量をこなした後、それでもどうしようもないときには、別の原因だと思ったほうがよいでしょう。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
第二点目は、「『勉強でないもの』を勉強をしたと考えてはならない」ということです。
「勉強でないもの」とは、例えば英単語の意味調べがそれです。
英単語の意味調べは、英文を理解するための「前準備」です。
それ自身を勉強とは言えません。
その「前準備」すら怠っている生徒さんは少なからずいるので、何もしないよりはいいですが.....
もちろん「前準備」も広い意味では「勉強」のうちに入るでしょう。
しかしそれを「勉強」だと考えている限り、結局それは「勉強量の不足」につながってしまいます。
また「教科書を読んで、大事なところに線を引きました」というのも、それだけでは不十分です。
教科書を読んでいないようではお話になりませんが、大切なのは、それをした後、当該箇所を問題演習してみることです。
数学であれば、教科書を読んで練習問題をやってみるとか、社会であれば、学習した用語の穴埋め問題をやってみるとかです。
そして間違っているところがあれば、教科書の該当箇所に帰って確認します。
それをやって自分の足らざるところを自覚し、そこを覚えることで初めて「勉強した」と考えるようにしてください。
受験とは「点数が取れてナンボ」の世界です。
点が取れなければ、「分かった」とはみなされません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
第三点目は、「反復量は足りているか」ということです。
「反復量」とは、「同じことを繰り返しやる量・時間」です。
例えば、定期試験の前に副教材のワークを繰り返しやるとか、入試の過去問集を何度もやるとか、そういったことです。
だいたいにして、スポーツでも野球の選手は何度も素振りをやります。
守備練習・攻撃練習にしても同じことを繰り返します。
そうやって技を体に染み込ませます。
それは学習でも同じことです。
「勉強はやってるんですけど.....」という人は、試験の前にサラッと副教材ワークをやっただけで、しっかり点数が取れるほどできているのでしょうか?
勉強がそんなに甘いものではないことは、そう言っている本人が実はいちばんよく分かっているのではないでしょうか?
学校では時間の関係で、単元を前に戻って復習する、などということはまずしません。
学校では深く扱えなかった個所を自分で繰り返し演習するのが「勉強」です。
「勉強って言っても、何をしたらいいのか分からない.....」という人は、身近にある学校の副教材をまずは5回繰り返して解いてみることです。
1回教材を解いて、2回目のときには、前に比べてできているはずです。
3回目、4回目とやって行けば、さらによくなっていくでしょう。
そうすれば試験では成果が出てきます。
実力試験や模擬試験のように範囲の広いものは、すぐに成果を出すことは難しいですが、定期試験はハードルが高くなく、成果が上げやすいです。
定期試験でよい成績をとり、「勝ちぐせ」をつければ、自信につながっていきます。
そうなればしめたものです。
よい循環を作れるように努めていきましょう。
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