〒981-0933 仙台市青葉区柏木1-2-29-301
電話での受付:15:00~20:00
定休日:日曜日
今日から6月に入りました。
新年度に入ってから、2か月がたちました。
その間、生徒さんの指導終了・新規引き受け等の入れ替えがありました。
いま現在の指導枠の空き状況をお知らせいたします。
<月~金曜>
日中昼間の時間16時まで、および22時以降
いわゆる「平日のゴールデンタイム」は空きがありません。
<土曜>
朝9時~22時の間に1コマあり。
時間は調整可能
22時30分以降であれば、空きがあります。
<日曜>
22時以降であれば、空きがあります。
朝9時~22時の間は場所により1コマお取りできる可能性があります。
<キャンセル待ち>
2件
以上の通り、空き状況は日中昼間、22時以降以外はほぼありません。
土曜日の「残り1枠」をご検討の方は、お早めにお問い合わせください。
日中昼間の枠は、高校既卒生、あるいは専門学校を受け直す社会人の方、不登校生が中心となるかと思います。
指導をお引き受けするにあたっては、「菊池の指導を受ける意思のある生徒さん」であることが条件です。
指導を受ける意思のない場合、あるいは指導に耐えられないと判断される場合は、お引き受けできません。
そういう生徒さんは、「どういう人でも引き受けます。お断りしません」という受験関係者の方にご相談ください。
また指導に当たっては、特に次のような生徒さんをお持ちのご父兄のお力になれます。
1.大学受験、赤点対策を希望する高校生
2.二華・青陵・附属など中学受験の補助
3.通塾しても、成績がなかなか上がらない中学生
お問い合わせの場合は、こちらからご連絡ください。
よろしくお願いいたします。
わたしには、学生時代からお付き合いのある韓国人の友人がいます。
その友人とは、ほぼ毎日、カカオトーク(こちらのLINEに当たる)でメッセージのやり取りをしています。
その友人も受験指導の仕事をしていることもあり、共通の話題で盛り上がることもあります。
韓国の学校制度は、日本と基本的に同じです。
6・3・3・4制で、義務教育も中学までです。
しかし、日本と違うところは、高校の入学においては、基本的に入試がありません。
中学校の成績をもとに、高校ごとの学力差が生まれないように、お上から通学する高校を割り振られます。
どこに通うようになるかは、全くの運次第です。
そういう制度を40年以上も採用しています。
その結果、どうなったのかというと、一般的に中学生は学習に不熱心です。
また、そのために、学力レベルが低い水準のままに高校生になってしまう例がかなりあります。
わたしの友人も「うちの生徒たちは、勉強に熱心でない人たちが多くて.....」と、よく嘆きます。
もちろん、わが国でも学習に不熱心な生徒はたくさんいます。
が、やはり高校入試があるのと、ないのとでは、ご父兄の考え方や生徒たちの志気がまるで違ってきます。
そういうわけで、友人は、日本の高校受験を非常に高く評価しています。
わたしは、友人の賛辞を聞いていて、さほど熱心とは言えない面々が思い浮かび、苦笑するだけです(笑)
(次回に続きます)
(前回の続きです)
韓国の受験事情は、前回お話した通りです。
わたしも、友人から聞く彼らの受験事情に、!!!となることが多いですが、先日はほんとうに驚くことがありました。
その友人の担当している生徒が、10日ほど、指導ができないというのです。
何か事情があるのかと思いきや、その間、家族で旅行に出かけたというのです。
もちろん、その間、学校の授業はあります。
しかし、韓国では、長期の休みでもない時期に、家族ぐるみで旅行に出かけてしまうという父兄が結構いるそうです。
わたしの目から見ると、それは単なるサボりにしか見えません。
しかも、家族ぐるみで、こういうことをやっています。
その友人に、学校の先生方はそれをご存じなのかと尋ねたところ、ご存じなのだそうです。
というのも、かの地では、「家庭体験指導」というのがあって、休んだ際に旅行のレポートを書けば、「出席」と見なしてくれるのだそうです。
わたしが「そんなことをやっている学校は、世も末ですね」と語りかけると、その友人も「自分の中学生時代には考えられないこと」と嘆いていました。
ちなみに、その友人の住まいは、江原道(こうげんどう)江陵市(こうりょうし)(「道」とは、日本の「県」に当たる)にあります。
先日、羽生選手が金メダルを取った場所です。
その江原道では、定期試験は中学2年生からで、中学1年生は免除されています。
理由は、「中学校生活になじんでもらうため」だそうです。
こうした措置は、江原道でだけ行われているということでした。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前回まで述べたことを、生徒さんたちはどのように感じたでしょうか?
「高校入試がないってうらやましい」
「オリンピックをやったところでは、定期試験が中2からっていいなぁ〜」
「家族旅行で10日も学校に行かなくても出席にしてくれるって、楽!」
と、感じたかもしれません。
わたしが中学生だったら、間違いなく、そう思います(笑)
しかし、これを国単位で見れば、相当な損失です。
そればかりが原因ではないのでしょうが、あちらの学生は、慢性的な就職難です。
勉強している人としていない人の格差、それに伴う所得格差は、日本どころではありません。
日本も平成に入って、「就職氷河期」と言われる時期が長く続きました。
とはいうものの、それは韓国ほどひどくはありません。
現在、わが国では就職状況がよく、売り手市場と言われています。
友人は、そうした日本の事情をよく知っています。
そして「日本はうらやましい。韓国では考えられない」と言います。
経済状況がいいか、悪いかということは、入試のシステムと直接には関係がないかもしれません。
しかし、家族旅行で10日も学校に行かなくても出席にしてくれる国が、今よりよくなることは、ちょっと考えられません。
韓国に比べれば、我が日本は、まだまともであると言えるではないでしょうか。
そして、彼らのようになってはいけないと、つくづく感じます。
動画がきちんと表示されない場合はこちら↓
通常、わたしのコラムは小中高校生をお持ちのご父兄に向けて発しています。
今回は、趣向を変えて、小中高校生の皆さんへ向けて書いてみることにいたします。
わたしを含めた受験関係者は、指導に当たる以外の時間に、皆さんがどう過ごしているのか、正直申し上げて分かりません。
皆さんが語ること、親御さんがお話になること、そして指導の際のでき具合を見て、総合的に判断するより方法がありません。
特に皆さんの親御さんが、皆さんについて語るのを聞くとき、わたしが感じることがあります。
それは、「もう少し、生徒さんたちは上手にやれないものかな〜。こういうことをしていれば、親御さんがこういう反応を示すのは分かるだろうに....」ということです。
例えば、試験の間近になっても、相も変わらず、自分の趣味の世界に没頭し、勉強はそっちのけ.....という話を親御さんからちょくちょく耳にすることがあります。
もちろん、勉強ばかりでは息が詰まってしまうのも理解できます。
また、試験の前に少しばかりやったところで、結果はさほど変わらないのかもしれません。
しかし、試験の前という状況の下、そういう気合の入っていない様子を、親御さんがご覧になったとしたら.....
親御さんがどういう反応をするかは、ある一定の年齢に達すれば、分かりそうなものです。
普段はどうあれ、せめて試験前くらいは、一生懸命に机に向かう振りぐらいはできないものなのかなあと思ってしまいます。
10代の皆さんにこのようなことを言うのは酷かもしれませんが、とにかく「やり方・見せ方が下手」なのです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
小中高校生の皆さんは、親御さんと言うと、口うるさくて、煩わしい存在だと感じている人が相当数いるかもしれません。
その気持ちは分かります。
しかし、皆さんがあなた自身の親になったつもりで考えてみてください。
試験前にもかかわらず、スマートフォンでLINE、youtubeを使い放題使って、結果が悪かったら、どう思うでしょうか?
「まず試験前くらい、勉強をしてほしい」と感じるのではないでしょうか?
それがまさしく、皆さんの親御さんが、皆さんへ抱いている気持ちです。
10代のころは、親との葛藤がいろいろとある年代です。
それは皆さんが、大人の階段を上る上で、必要なことです。
それなしに成長はありません。
とはいえ、親御さんにも10代のころはありました。
ある日突然に親になったわけではありません。
ですから、10代のころの子供の心理を、親御さんはよく理解しています。
そう考えると、親御さんを味方につければ、こんなに頼もしくて、強い味方はいません。
親というものは、皆さんが一生懸命に学習に打ち込む姿を見たいのです。
そして、皆さんのそういう姿を目にすれば、間違いなく、親御さんは皆さんの味方になってくれます。
たとえ結果が残念なことになっても、一生懸命に皆さんが頑張れば、親御さんは納得してくださるものです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
このように書くと、「自分なりにやっているのに、親は分かってくれない」「やっていないわけではない」という小中高校生の皆さんからの反論が予想されます。
まあ、確かに全くやっていないという人はいません。
それに、「自分なりに」やったとして、それで満足が行くような結果が出ているのなら、それでもいいでしょう。
それに達していないのであれば、そういう言葉を親御さんから言われても、致し方がないのではないでしょうか?
だいたい、皆さんと、親御さんの双方の話を詳しく聞くと、ありがちなことがあります。
それは、親御さんが皆さんの学習状況に不満がある場合、ほとんど、皆さんに言われるだけの理由があることです。
こうした状況は、わたしから言わせると、親御さんが皆さんの最大の味方になって下さる機会を、自分から捨てているようなものです。
実にもったいないことをしています。
あれこれ言われるのが苦痛なら、結果を出すことです。
結果が出ると、親御さんは非常に優しくなります(笑)
そしてそうなると、これまでにないような「居心地のよさ」を得ることになるのです。
親御さんも、小言を言いたくて言っているわけではありません。
親御さんは、皆さんの前では親です。
が、仕事場では「働く戦士」です。
そして、夫婦間では「よき夫、よき妻」としての役割を果たさなくてはなりません。
皆さんの見えないところで、いろんな役割を果たしています。
そんな親御さんの心配を少しは取り除いてあげてもいいと思いませんか?
すでにわたしのツイッターでは案内しておりますが、宮城県内の公立高校のオープンキャンパスの日程が県の高校教育課から発表になっています。
再度こちらにリンクを掲載いたします。
(宮城県公立高校オープンキャンパス日程)
また、仙台圏の私立高校および高専ののオープンキャンパスの日程も各校より発表になっています。
このたびわたしが一覧表を作成したものを、PDFファイルでアップいたします。
(仙台圏私立高校・高専オープンキャンパス日程)
私立高校の日程については、ホームページなどの公開情報よりまとめました。
公開されていない情報については、各校に電話で問い合わせました。
記載内容は6月6日現在です。
電話による問い合わせを行ったところ、中学校宛には配付済みのところ、これから配付するところ、半々といったところです。
変更の可能性もありますので、詳細については、実施日が近くなりましたら、各校に個別にお問い合わせいただくか、ホームページを参照ください。
(web申し込みの準備をしている最中の学校)
聖ドミニコ、仙台白百合、仙台城南、東北学院榴ヶ岡、東北学院、常盤木、宮城学院
(オープンキャンパスの日程のweb上で更新せず、昨年のままになっている学校)
常盤木、東北学院榴ヶ岡
(昼食を用意してくれる学校)
仙台育英、東北、東北学院
電話で問い合わせをしたり、ホームページを見ていて感じるのが、オープンキャンパスに熱心かどうかが、学校ごとに非常に温度差があるということです。
何だか、個々人の学習に対する姿勢と似たところがあるように思います(笑)
学校の授業でも、塾・家庭教師といった受験関係者からの指導でも、「課題」というものは必ず付きまといます。
わたしは、新しく指導を担当することになった生徒さんに、「課題というのはなぜ必要なのか」「どうしてその課題でなければならないのか」ということを、できるだけ丁寧に伝えるようにしています。
小学校低学年の生徒さんは別にして、ある程度の年齢に達すると、「課題はなぜ必要なのか」ということを、一応は理解できています。
実際、「なぜわたしが課題を出したり、学校から課題が出るか分かりますか?」と、彼らに問うと、「習ったことをちゃんと覚えるため」という答えが返ってきます。
しかし、わたしの目から見ると、「課題がいかに大切か」というところが、まだ十分には理解されていないように見えます。
生徒さんやご父兄は、「課題というものは、学校の授業や塾・家庭教師の指導を補完するためのもの」と考えているかもしれません。
名前からして、「指導」と「課題」です。
そう考えるのも無理からぬことです。
ところが、「成績を向上させる」という観点から見ると、「課題は指導の付属品」ではありません。
むしろ、「課題が主で、指導が従」というのがわたしの考えです。
受験産業というものは、指導者が指導をし、生徒さんが指導を受けることで対価が発生します。
「指導」には「指導者」がいて、何らかの「指導」をしてくれます。
「指導」の際には、「指導者」の指示に従っていればいいわけです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
課題は基本的に自学自習です。
「指導者」の目は届きません。
ですから、「課題をやりました」といっても、どのような状況で学習に取り組んでいるのかは、生徒さん本人に任されています。
そして、試験の際は、自分だけの力で答案に向かって問題を解き、答えを書かなくてはなりません。
そこには、「指導者」がいません。
そのようなことを考え合わせると、「課題の重要性」が分かっていただけるのではないでしょうか。
もう少し分かりやすく説明するために、ここで、数字を示します。
平日、睡眠時間や学校に行っている時間を差し引いて、「自学自習が可能な時間」を1日4時間とします。
そして土日は、1日8時間とします。
仮に週2日、3時間の受験関係者による指導があるとすると、次のようになります。
「自学自習が可能な時間」36時間
「指導者がいる時間」6時間
「指導者がいる時間」は、全体のうち、約17%を占めるにすぎません。
残りの83%は「生徒さん本人のみで対処しなくてはならない時間」になります。
以上のような数字の取り方には、様々な見方があるでしょう。
いずれにせよ、ここで留意すべきは、受験関係者の指導以外の学習が、いかに重要になってくるかということです。
自分の力だけで勉強するには、かなり強い意志が必要です。
しかし、そんなに意志の強い人はいません。
学習者の弱さを補うのが、課題です。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
ただ、中には、「毎日指導があります」「いくら通ってもらってもOKです」という塾が存在します。
そういうところでも、自学自習をしなくてはならない時間が出てきます。
そうした塾は、周りが勉強しているので、自学自習をしやすい環境にあります。
が、それは「しやすい環境」を提供してくれるだけです。
自分の力で学習を進めなくてはならないという本質に変わりはありません。
そして、そういう塾であっても、四六時中、一人の指導者が一人の生徒のことを付きっきりで見ているわけには行きません。
「指導者の目が届かない時間」というのが必ず出てきます。
そういう時間にどのような自学自習をやったのかというのが非常に大切になってきます。
このような塾は、「指導」と「課題」がワンセットになっていると考えると、本質が理解できます。
ですから、生徒さんやご父兄には、課題というものを軽く考えないでいただきたいのです。
「指導者からの指導」というものは、「課題を補うもの」でしかありません。
ちょうど、ダイエットをやろうとするとき、ジムで筋トレをするだけでなく、むしろ自宅での食生活や自主トレが大切であるのと同じです。
そして、「指導者の指導」というのは、生徒さんがだれることなく、定期的に喝を与えてくれる存在です。
わたしが常日頃から、「自分の仕事は生徒さんの学習のお手伝い」と語る理由がここにあります。
わたしは家庭教師という指導体制をとっている関係上、塾の先生方に比べて、指導している地域を「広く浅く」見ることができます。
そこで感じるのは、学区により進学実績、ご父兄・生徒さんの意識がかなり異なるということです。
例えば、仙台駅を中心として、5分〜10分、自動車を走らせただけで、進学実績は学校ごとに大きな違いを見せます。
ここでいう「進学実績」というのは、「より難関とされる高校にどのくらいの割合の生徒が進学しているか」ということを意味します。
具体的に申し上げると、五橋中、上杉山中、仙台一中近辺を中心とする青葉区の一帯、泉区の造成地一帯、太白区の長町駅を中心とする一帯などは、進学実績の優れた「文教地域」と言えます。
また最近は、富谷市も元気があります。
五橋中、上杉山中、仙台一中の学区は、伝統的にずっとそういう地域です。
そして、上記のような「文教地域」というのは、基本的に「新しい住民が越してきて、人の出入りが活発な地域」です。
こうした傾向というのは、仙台近辺だけに見られるものではなく、全国的なものです。
では、上記以外の地域にお住まいの方で、「学区のハンデ」をお感じになっていらっしゃるご父兄はどう対応すればよいのでしょうか。
わたし自身は、多賀城の中でも、市川地区という取り分けて自然豊かな(笑)、「文教地域」とは縁もゆかりもないところで育ちました。
そうした経験も踏まえながら、以下、書いてみることにいたします。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
まず、ご父兄が留意すべきは、「学校の席次のみならず、それ以上に模擬試験の偏差値を気にしてほしい」ということです。
わたしが生徒さんのご父兄と接したり、また受験関係者からの話を聞いて、定期試験と模擬試験にまつわることで感じることがあります。
それは、「学校の定期試験への関心が、模擬試験のそれに比べて高すぎる」ということです。
学校の定期試験は、「〇〇人中、〇番」というふうに、実に分かりやすく席次が出てきます。
また、内申書対策という点からも、非常に重要です。
一方、模擬試験で重視されるのは、順位ではなく、偏差値です。
宮城県内で行われている高校受験向けの模擬試験は、みやぎ模試、進学プラザ系、栄光ゼミナール系、ぜんけん模試など、百花繚乱状態です。
ある学習塾に属すると、原則として、その系統の模擬試験しか受験しません。
例えば、進学プラザ系の模擬試験の受験者は、みやぎ模試の受験者とかぶりません。
ちなみに、宮城県の中3の卒業者は、今春で約21,000人、公立高校の定員は、約15,000人です。
そして中3の1月におけるみやぎ模試の受験者は、約1万人です。
それゆえ、「うちの子供は結局、どのくらいの成績なのか」を理解するという観点から見ると、模擬試験の成績は必ずしも分かりやすいものではありません。
「うちの子供は学校で平均点を取れています」と言っても、受験生全体を見た場合、平均点が取れる学力であるという保証はどこにもありません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
また、受験に関する情報を取る際は、「情報源をある程度に絞る」という姿勢が重要です。
受験に関する情報は、学校、塾や家庭教師などの受験関係者、「ママ友」などの口コミ、インターネットなどがあります。
特に最近は、SNSの発達で、情報がインターネットを通じて容易に、そして大量にとれるようになりました。
ネット情報については、受験関係者あるいは「受験に造詣の深いノンプロ」の手によるものが多いようです。
この際、困ってしまうのは、そういうネット情報で、片方はAがいいと言い、片方はBがいいと言っている、という場面にしばしば遭遇することです。
しかも、どちらも正しいように見えるし、どちらも「受験関係者」を名乗っている場合は、判断に迷います。
そして、「どちらが正しいのか」をいろいろ調べていくうちに、ますます分からなくなってしまうということがあります。
これなどは、情報が多すぎるために起きる現象です。
インターネットは非常に便利な道具です。
「ちょっと調べてみたい」「ちょっと確認してみたい」という場合には、絶大な力を発揮します。
「このコマーシャルに出てる女優さんって、何ていう名前の人?」というようなことをチェックするには非常に便利です。
ただ、子息の受験というようなことを決めるに際しては、「ちょっと確認」というわけにはいきません。
そのネット情報が正しいのか、どうなのかという判断ができるためには、ある程度、その分野の基礎知識を持っておく必要があります。
そういう知識がなければ、混乱してしまうだけです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
ネットというのは、便利な反面、「書いた者勝ち」という側面があります。
そして、その内容が奇をてらったりしているものほど、世間の耳目を集めます。
しかし、それが真実であるとは限りません。
それゆえ、情報源はある程度絞り、「情報の洪水から、いかにして我が身を守っていくか」というのを考えるべきです。
情報源の絞り方は、「その情報発信者が、信頼に足る人あるいは会社かどうか」を基準にするとよいでしょう。
不安になって、情報を集めすぎると、かえって混乱してしまいます。
実際、例えば、yahooのサイトにある「知恵袋」における受験関連の情報についても事情は同じです。
「この方の書くことは、だいたい正しいことを言っている」と感じることもあれば、「この人の書いていることは、ちょっと???」というふうに感じることもあります。
もっとも、わたしもこのようにして、世間様へ向けて、自ら考えるところを発信しているので、ヨソ様のことをあれこれ言えた義理はないのかもしれませんが.....
その辺の判断というのは、基礎知識がなくてはできません。
わたしのような「受験を職業にしている人」ならば、できる限りの情報に触れることも必要でしょう。
しかし、受験のプロでもないご父兄に、雑多すぎる情報は不要です。
ご父兄におかれては、効率よく情報に接し、今後の受験にお役立てください。
このところの少子化に伴い、特に私立高校などでは、「面倒見のよい教育」というのを前面に打ち出しています。
学校がこういう状態です。
受験産業においても、こうした流れから自由ではありません。
いま、試しに「面倒見のよい塾」というキーワードでネットを検索すると、多くの受験産業がヒットします。
ご父兄からすれば、「面倒見のよい学校」「面倒見のよい塾」というのは、ありがたい存在に映るに違いありません。
「面倒見のよい塾」「面倒見のよくない塾」、同じ指導料で、どちらに子息を通わせたいかと問われれば、「面倒見のよい塾」を多くのご父兄はお選びになるはずです。
家庭教師という指導体制は、そもそもが「面倒見のよい指導」の元祖のようなものです。
何しろ、1対1の指導です。
ご父兄もその「面倒見のよい指導」を期待なさっていらっしゃるはずです。
しかし、逆説的に聞こえるかもしれませんが、わたしが目指すのは、「面倒見のよすぎない指導」です。
そして、どこまでが指導者のなすべきことで、どこまでが生徒さん自らがなすことなのかを勘案して、最善の方向に持っていくのが、真のよい指導だと考えています。
勘案の要素としては、その生徒さんの学年、習熟度、志気等です。
「面倒見のよい指導」は確かに必要かもしれません。
しかし、「面倒見のよすぎる指導」は生徒さんにとって、マイナスにしかなりません。
「面倒見のよすぎる指導」で、成績が向上することはありません。
それは、生徒さんが学習の上で自立していく過程を、むざむざ奪ってしまうからに他なりません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
「面倒見のよい指導」と「面倒見のよすぎる指導」との境界というのは、かなり曖昧です。
わたしも指導をしていて、判断に迷うことがしばしばです。
ここで、ひとつ具体的な事例を出します。
以前、中3の男子生徒が、定期試験の間際になって、副教材ワークの解答を紛失してしまったということがありました。
この生徒さんは、男子によくあることとして、いろんなものをちょくちょく紛失してきました。
そういう場面での会話です。
菊池: あれ? ここの課題のところ、随分と残しましたね。
それから、答え合わせも、やってませんね? どうしましたか?
生徒さん: 答え、なくしちゃったんです。
菊池: 答え、なくしたんですか?
それで答えをなくして、課題をやっていないのは、何か理由がありましたか?
生徒さん: 答え合わせができなくなったんで、それで問題を解いても仕方がないかなと。
それで、やってなくて.....
菊池: そんなのは言い訳にもならないでしょ。
なくしたんなら、友達のを借りてコピーさせてもらうとか、そういう発想はないんですか?
生徒さん: .....
菊池: とにかく、次回までに友達から答えを借りて、コピーして、必ず答え合わせをしてください。
その代わり、友達にタダで頼んではダメですよ。
コンビニでアイスクリームでも、ポテトチップスでも買ってきて、頼むんですよ。
生徒さん: はい、分かりました。
書いているわたしのほうがグッタリしてきそうですが(笑)、この手の中学生、特に男子生徒にはこういう人たちが一定数います。
「解答をなくした? そんなの自分で考えて何とかしてください」と言いたいところをグッとこらえて、上記のような指示をしました。
解答を紛失したという事態に対して、わたしができるのは、ここまでです。
自分の尻は自分で拭いてもらわなくてはなりません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
では、これが小学生の場合でしたら、どうでしょうか。
わたしなら、生徒さんのご父兄に次のように言います。
~〇〇君は、ワークの答え、なくしてしまったようです。
たぶん、お友達なら持っていると思います。
学校の先生におっしゃっていただくか、お友達の答えをコピーさせていただくか、いずれにせよ、次回までに答えをきちんと手元に置いておくようにしていただけませんでしょうか?
もし、その生徒さんが普段から書類関連の整理感覚が乏しければ、ご父兄からお小言などの適切な教育的指導を経て、次回には手元にワークの答えがあるはずです。
上記のような指導の線引きというのは、判断が難しいです。
しかし、わたしの考えとしては、あくまで「その生徒さんが、できうる限りのことをやる」「問題解決の方向性は指し示すが、最終的に実行するのは、その生徒さんである」ということです。
「面倒見のよい指導」という美名のもと、あれこれ講師が動き過ぎるのは、よくありません。
そして、長期的に見ると、その生徒さんの自立を妨げてしまう可能性もあります。
わたしのような受験関係者からすれば、何がしか生徒さんのために動けば、働いたような気がするし、感謝の言葉も得られます。
しかし、受験関係者が生徒さんの代わりに入学試験を受けてくれるわけではありません。
あくまで、生徒さんが試験会場に赴き、自らの手で答えを書き、結果を出さなくてはなりません。
上述したようなことは、小さいことかもしれませんが、生徒さんが自立する上で、少しでも助けになればと考えています。
今週から来週にかけて、多くの中学校は定期試験を迎えます。
わたしもここ数日、中学・高校の定期試験対策で追加指導のために東奔西走しております。
さて、定期試験の重要性は今さら語るまでもありません。
それは内申評定を決める上で、重要な要素です。
しかしながら、評定は定期試験だけで決まるかと言うとそうではありません。
それも多くのご父兄・生徒さんはお分かりかと思います。
今回のコラムでは、「では、内申評定ってどう決まるの?」という疑問にお答えすることにいたします。
ここで、仙台市に五橋中という中学があります。
ここでは、授業の進め方(シラバス)をホームページで公開しています。
そのシラバスには、評定がどのように決まるのかの基準が記してあります。
この基準については、どの学校も同じだと思われます。
これは、学校の公式発表によるものですので、極めて参考になる記述です。
以下、それをつぶさに見ていくことにいたします。
主要5教科については、どの科目も基準は以下の通りです。
(1)授業での発表・取り組み
(2)定期試験
(3)提出物
(4)単元テスト
(5)長期休暇の課題
以上の5項目をどのように評定に反映させるかについては記述がありません。
常識的に考えると、定期試験での成績が最も大きな要素を占めています。
しかし、上記のように、定期試験だけに神経を集中すればいいというわけではありません。
定期試験の次に重要な要素は、「課題への取り組み」、つまり各種の提出物です。
わたしが口を酸っぱくして、提出物はきちんと出すように言い、副教材ワークの進捗状況を気にするのは、この点にあります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
各種提出物が、評定を決める要素として大きな意味を持つのは、「それをきちんとやるくらいの人ならば、関心・意欲が認められるから」という側面もあるでしょう。
しかし、それ以上に大きいのは、「提出物という基準は、客観性が高いから」であると思われます。
「授業での発表・取り組み」というのは、先生方の感じ方ひとつで、どのようにも評価が付けられます。
そこには主観的要素が大きいです。
ちょうど、「AさんとBさんで、どちらのほうが顔が綺麗か」を判断するようなものです。
だいたい、常識的な基準はあるでしょうが、「数値で客観的に表せ」と言われると、答えに窮してしまいます。
一方、定期試験は点数で出てきます。
1点ごとに刻みがあるので、数値で到達度が分かります。
また、提出物の場合、「期限までに出したか」「漏れなく問題を解き、答え合わせをしているか」ということは、極めて客観的です。
誰が見ても、文句のつけようがありません。
もっとも、定期試験についても、記述の仕方や、提出物の「丁寧な取り組みの判断」は、先生方の主観が反映されてしまう部分があります。
なかなか100%客観的というわけには行きません。
どうしても評価をつける先生方の主観が評定に絡んでしまうのは、致し方がありません。
ただ、その一方で、なるべく客観的になるように、先生方なりに気を遣っている様子が見て取れます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
この提出物について、盲点となるのが、副教材ワーク以外の提出物です。
こうしたものは、提出物以外にも、学校から出される課題などがあります。
以前、わたしの生徒さんで、定期試験の点数の割には、評定が低くなっているときがありました。
副教材ワークは、わたしが日ごろから口を酸っぱくして言っているので、提出の遅れはありません。
なぜ、こういう評定になっているのかを生徒さんに尋ねると、次のことが分かりました。
副教材ワーク以外の各種提出物に、締め切りの遅れがあった.....
未提出のものがあった.....
その生徒さんは、その場でわたしからこってりと油を絞られ、たっぷりと教育的指導を施されました。
以上から判断できるのは、学校の先生方は、しっかりとご覧になっていらっしゃるということです。
わたしも「要注意」と感じている生徒さんには、提出物の遅れがないよう、日々、声がけをしています。
しかし、わたしができるのは、副教材ワークの進捗状況が限度です。
何から何までできるわけではありません。
副教材ワークは定期試験の後に回収されたり、また定期試験に問題として類題等が出題されたりなど、提出物の中では「花形」です。
その一方、それ以外の提出物への取り組みを疎かにすると、とんだしっぺ返しを食らいます。
その点、よくよく留意しておかねばならないことです。
去る6月18日、ツイッターに「!!!」というツイートがなされていました。
内容はこちらです。
このツイートは、兵庫県明石市にある尾形塾の尾形先生がアップされたものです。
受験関係者から見て、極めて衝撃的な内容だったため、現段階で、リツイートが3,199回、いいねが3,421回に上ります。
わたしのツイートの「リツイート・いいね」は、せいぜい1桁です。
世間の耳目を集めたツイートであることは間違いありません。
このツイートの顛末というのは、簡単に申し上げると、こういうことです。
ある数学の先生が、数学として許容されている書き方を、「教科書に記載されていない」という理由で、試験答案に書いた場合は×にすると公言
→尾形先生が「おかしい」と感じ、当該先生に善処を申し入れる
→学校の先生はこの申し入れを拒絶
→尾形先生が、上部機関に学校の先生の誤りを指摘し、善処をするように申し入れる
→結局、「許容されている書き方」も正答とすることで決着
これは一見すると、些細なことかもしれません。
「学校の先生がそういう方針なんだから、事を荒立てなくても、先生の言うとおりにしていればいいのでは?」というお考えのご父兄もいらっしゃるかもしれません。
しかし、受験関係者から見ると、これは極めて重大な問題をはらんでいます。
これは学校の先生と、生徒の間の「学問を学ぶ上での信用の問題」です。
以下、わたしの考えを記します。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
まず、数学で許容されている書き方を「教科書に記載がない」という理由で誤答とするのは、100%間違っています。
今回の件は、当該学校の先生に100%の非があります。
それは、受験関係者を含めた数学に携わる人なら、全員同じ答えになります。
そういう事情があるからこそ、今回のツイートは大きな関心を集めたのです。
今回のことはこれで決着したからいいとしましょう。
残念なのは、学問として正しい答えでも、「教科書に記載がない」「学校で教えたように解いていない」という理由で、それを許容しない先生というのが、一定数存在することです。
わたしは、こうした学校の先生を「教科書原理主義者」と呼んでいます。
仮に、わたしに尾形先生と同じようなことが起きたら、わたしは可能な限りの手段を用いて、徹底抗戦します。
学校の先生は、学校という公に守られた権威です。
一方、わたしには何の後ろ盾もありません。
「蟷螂(とうろう)の斧」だと言われようと、これはやり合わなくてはならないことだと感じています。
では、不幸にして、もし子息が同じような状況に陥ったら、どうすればいいのでしょうか?
必要なのは、その先生だけに申し入れるのではなく、学校長などの管理職、あるいは教育委員会など上部機関に話を持っていくことです。
その先生だけに話をするのは、黙殺されて終わりです。
受験関係者に相談するのもよいでしょう。
心ある受験関係者ならば、親身になってくれるはずです。
事実、今回のツイッターでは、非常に関心を集めたわけですから。
(次回に続きます)
(次回に続きます)
今回改めて、学校の「教科書原理主義者」の先生に関して、ネットで検索をしてみました。
すると、出てくる、出てくる(笑)
~小学校で、「学校で習っていない漢字」を書くと、先生から×をつけられたり、叱責を受けたりする。だから子供は、「習っていない漢字」を書かないよう、ビクビクしながら文章を書いている.....
~算数・数学で、学校では教えていないやり方で解くと、×をつけられたり、「答えが合ってればいいっていうものではない」と言われた.....
以上は、ツイッターで問題にした数学の表記にまつわることと、少し毛色が違うかもしれません。
が、いずれも根っこにあるのは、「教科書原理主義」です。
数学に関していうと、ある問題について、解き方はいくつか存在します。
例えば、小学校で習う「円の面積」は、高校生が習う積分でも解けます。
まあ、小学生は仮に積分を知っていても、円の面積をわざわざ積分で解くことはしないでしょう。
が、仮に当該小学生が積分で解いたら、「学校で習っていないことだから、×」というのが、「教科書原理主義者」の先生の考え方です。
「自分としては、今、学校でやっていることをきちんと習得してほしい。だからそちらの解法を使ってほしい」という気持ちは確かに理解できます。
しかし、自分が想定した通りの解法を用いずに解くことが、なぜ×になるのでしょうか?
もちろん、当初から「これこれこういうやり方を用いなさい」と指示してあれば、話は別です。
そういう前置きを設けず、「学校で習っていないことだから、問答無用で×」というのは、狂気の沙汰です。
なぜ「学校で習った解法だけ」「教科書にあることだけ」が「正しい答え」なのでしょう?
(次回に続きます)
(次回に続きます)
もし、わたしの生徒さんが、わたしの教えたことのない方法で正解を導き出したら、わたしはその生徒さんを褒めたたえます。
そして、「じゃあ、今、学校でやっているやり方でも、解いてみてください」と言うでしょう。
どちらででも正答したら、それは「分かっている」ということなのです。
学校の先生も事情は同じです。
「学校では習っていないこと」を書いてくる生徒がいたら、どうして褒めてやれないのでしょう?
学校で習得したことを確実にものにさせたければ、「じゃあ、今やっているやり方でも解いてみてね。そちらはそちらで、大切だから」と言えば済む話ではないでしょうか?
そして、それが「教育」というものなのではないでしょうか?
どうして、「学校で習っていないやり方でやったから×」になるのでしょう?
そもそも、学問上正しい答えを書いて、×をもらう生徒の気持ちを、「教科書原理主義者」の先生は、一度でもまともに考えたことがあるのでしょうか?
わたしには、何の権威もありません。
しかし、わたしは指導を通じて、試験で1点・2点を上げるために、体を張ってやっているのです。
それは、試験に臨む生徒さんも、そしてそれを見守るご父兄も同じことです。
なぜ、そんなに簡単に×をつけるのですか?
「教科書だけが正しい」というお考えならば、それは、取りも直さず、教科書の根本的な意味を分かっていらっしゃらないということになりませんか?
そういう先生は、教壇から去ったほうがいいのではないでしょうか?
今回の件で、つくづくそう思いました。
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ご父兄が子息に勉強を教える場面というのは、たびたび出てくると思います。
小学校の低学年のときには、特に多いでしょう。
また、中学受験の際にも必要になってくる場合があります。
この頃は、従前に比べても、高学歴のご父兄が増えました。
わたしの知る限り、勉強を教えるのは、お母様である場合が多いです。
また、この頃は時代を反映してか、お父様も仕事の合間を縫って、勉強を教える場合もあります。
ただ、以前に担当していたご家庭で、お父様が勉強を教えることについて、わたしの目から見て、ちょっと困っていたことがありました。
そのご家庭は、お父様とお母様が生徒さんに勉強を教えていました。
しかしながら、お父様の教え方が高圧的で、その結果、夫婦間でいさかいの種になってしまっていました。
そのお父様は高学歴の方で、その生徒さんは「中の中」くらいの成績でした。
そのため、お父様から見て、生徒さんが学習中に答えられなかったり、間違ったりすると、「なぜできない?」というふうに、その子供をなじることがしばしばだったようです。
お母様も生徒さんの勉強を見ていたのですが、夫婦間で教え方が違うなど、生徒さんのほうは混乱していました。
そうした中にわたしが指導に行きました。
子供さんの現状を勘案し、ご父兄には「学習については、基本的にわたしにお任せください。わたしの手の回らない部分があるときには、こちらがお願いしたようにしていただければと思います。」とお願いしました。
しかし、お父様はわたしの要望を聞き入れる様子がありませんでした。
そして、今まで通りに自分の考えるように指導なさっていました。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
お父様がどのような教え方をしているのか、生徒さんを通じて、知ることができました。
一言で言えば「できる人ならそう教えるだろうけど、この生徒さんには合ってないことがちょこちょこ出てくるだろうなあ」ということです。
わたしは当然のことながら、その生徒さんのレベル、学年、現在までに習っていることなど、いろいろと考えて、指導をします。
同じことを教える際にも、教え方を変えています。
特にそれが、数学の場合ですと、「高度な解き方」「標準的な解き方」など、解き方が一つだけではありません。
このお父様は、「高度な解き方」を教え、それを子供が理解しないと「なぜできない!?」を繰り返していました。
こうなってしまうと、子供にとってはマイナスにしかなりません。
そして、このお父様は、子供に学習を教えて成績を上げるというよりは、子供の前で「自分がいかにできるか」を示したいという気持ちのほうが優先しているのかとも感じました。
そうとでも考えないと、一連のこのお父様の行動は説明がつかないのです。
このご家庭は、生徒さんがまじめで、一生懸命に頑張っていました。
そういう子供の芽を、親が摘んでしまうようなことはいただけません。
それだけに、一層「餅は餅屋で、まずはわたしにしっかり任せていただけなかったものか」と感じます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
父親が勉強を教える場合というのは、前回述べたような弊害のみがあるわけではありません。
うまく噛み合えば、非常によい状態で作用します。
実際、以前担当したあるご家庭は、お父様とお母様が、それぞれ生徒さんの学習を見ていました。
その際、それぞれ持ち分を決めて、指揮系統が二重にならない工夫をしていました。
また、「子供に勉強を教える」ということのほかに、「自分も子供と一緒に勉強していく」という姿勢も感じられました。
ここまでしっかりしたご家庭は、当然のことながら生徒さんの結果が出ます。
以上より分かることは、まず父親というのは、「家族の生活費を稼ぐ」というのが、最優先の仕事であるということです。
そして、任せるべきプロがいれば、基本的にはそのプロに任せて、自分は補佐役に回るべきだということです。
これは、何を隠そう、わたしが自分の娘に対して接してきたやり方です。
わたしも娘の受験は、さる受験関係者に任せてきました。
プロとしていろいろ見える部分はありましたが、あくまでわたしは補佐役に徹しました。
そうすれば、指揮系統が混乱することはありません。
船頭ばかりが多くなりすぎたのでは、船は山に登ってしまうだけです。
「ある日の朝、目が覚めたら、頭が痛い」.....こういう経験のある方はいらっしゃいますでしょうか?
そうしたときにどうなさいますか?
「まずはバファリンを飲んで、様子を見てみようか.....」
「医者に行って、何が原因かを調べてもらい、その原因を取り除いてもらおうか.....」
策はいろいろです。
ここで、「バファリンを飲んで様子を見る」というのが対症療法です。
そして、原因を取り除くのが根本治療です。
医学的には相当大雑把な説明ですが、だいたいそうなります。
ここで、バファリンを服用して様子を見ても、一時的に頭痛は消えるかもしれません。
しかし、原因が解決したわけではありません。
根本治療が大切なのは、誰でも分かっていますが、時間と手間がかかります。
受験学習についても同じことが言えます。
わたしは指導をしていて、「生徒さんによって、どうしてこれだけ能力の違いがあるんだろう?」と常々感じます。
人によって、足が速いとか、遅いとか、あるいは歌がうまいとか、下手とか、何にせよ、そういうものであろうということは重々理解しています。
さはさりながら、一生懸命に頑張っている生徒さんが、どうしても自分が意図するようなレベルに達せずに苦労している様子を見ていると、自分の無力さを感じずにはいられません。
その一方、何の苦労もなく、易々とそのレベルに達してしまう生徒さんを見てしまうと、余計にそう思います。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
生徒さんの能力の違いというのは、結局のところ、「国語力の違い」です。
国語力というのは、体に例えると、脳から出てくる指令のようなものです。
一生懸命に頑張っているのに、習熟度が上がらない生徒さんというのは、国語の力が弱いという一言に尽きます。
家庭教師という指導体制をとっていると、特にそうした生徒さんに接する機会は多くなります。
ここでいう国語力とは、必ずしも国語の試験の成績と同じではありません。
国語の試験の成績とは、その生徒さんの国語力の一部を表しているにすぎません。
そして、受験関係者としては、国語力を抜本的に解決するということはできません。
その国語力というか、受容力というのは、その生徒さん一人一人が、持って生まれたものです。
それゆえ、受験関係者ができるのは、「根本治療」ではなく、「対症療法」です。
国語の漢字力強化とか、数学の関数を集中的に学習するというのは、「頭が痛いからバファリンを服用する」ということでしかありません。
とはいえ、100の能力を持っている人が30の力を出す場合と、30の能力を持っている人が30の力を出す場合とは、世間としてどちらも「能力は30」と評価します。
わたしの役目とは、「根本治療はできない」ことを認識しつつ、生徒さんの能力が100%出るようにお手伝いをすることだと認識しています。
「能力は必ずしも高くなくても、それを努力でカバーする」という生徒さんを多数育てていくことがわたしの責務です。
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