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先般、ツイッターに↓のようなツイートが流れてきました。
わたしのほうで、リツイートしたものをお示しします。
この親子を見ていて、わたしは「ゆたぼん君」を真っ先に連想しました。
tiktokで動画を公開しているお母様の考えとしては、まとめるとこういうことです。
・うちの子供は読み書きが苦手
・一方で、絵をかいたり、レゴブロックは得意
・ならば学校に無理に生かせず、得意な分野を伸ばしたほうがいい
一見すると、「子供の個性を伸ばす」という考えで、良いように思えます。
ただ、わたしには、生徒さんの学習・受験に携わる者として、モヤモヤ感が残りました。
それは、お母様の発言のこの部分です。
「漢字も計算も音読も苦手」
「同じことの繰り返し 退屈なんです」
どうにもこの部分が引っかかってしまいました。
「漢字も計算も音読も苦手」
→「だから苦手なりに漢字・計算・音読も頑張るべき」
これならわたしも共感します。
しかし、
「漢字も計算も音読も苦手」
→「これらは退屈」
→「これをうちの子供にやらせる学校は、子供の個性をつぶす」
→「だから学校に行かず、うちの子供には、絵やブロックをさせておく」
これには、どうにも共感できませんでした。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前回のコラムで話題にした家庭は、子供さんが学習障害など、何らかの発達障害を持っているのかと想像しています。
「漢字も計算も音読も苦手」・・・
この家庭の子供さんが、どのくらいの「苦手」なのかは分かりません。
学習障害の度合いによっては、特別支援学級、その昔で言う特殊学級への通学が認められます。
ですから、「漢字も計算も音読も苦手」=不登校となるとは限りません。
このお母様が語るように、幼少期に覚えるべき文字・計算の類は、同じことの繰り返しです。
この「同じことの繰り返し」を通じて、これらを習得するわけです。
人間の頭脳はコンピューターでないからです。
「同じことの繰り返し」がイヤで、漢字・計算・音読を放棄してしまうとしたら、それはどんなことも学ぶことはできません。
第一、この家庭の子供さんが「得意」だとしている、絵画やレゴブロックにしても、「同じことの繰り返し」なのではないでしょうか?
それでも、小学生のうちくらいまでなら、得意なこと・好きなことだけをしていても、事は足ります。
このお母様がかばってくれますから。
しかし、子供が、20歳になり、30歳になり...となったら?
いつまでも、親が子供をかばってあげられるわけではありません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
こちらのお母様によると、次のようなことも語っています。
「絵やブロック組み立ては、子供が子供でいられる場所」
「時代はクリエイティブとイノベーションを求めてるから、やりたいことをやればいい」
趣味としてやるのであれば、絵やブロック組み立てもいいでしょう。
しかし、それを生業として行うとしたら、話はまるで違ってきます。
こういったクリエイティブ・イノベーションが求められると言うのは、大変に厳しい世界です。
というより、お金を稼ぐというのは、何でも大変です。
そして、どういう場面であれ、読み・書き・計算といった基本的な力は要求されます。
そこを無視して
「やりたいことをやればいい」
というのは、あまりにもリスクが大きすぎると言わざるを得ません。
「うちの子供は漢字も計算も音読も苦手」
→「だから苦手なりに漢字・計算・音読も頑張るべき」
→「そして、そのうえで子供がやりたいことをやる」
こういう風にしていくことが、親の愛情であるとわたしは感じます。
この方の子供さんとしては、今のところ、幸せでしょう。
やりたいことをやらせてもらえますから。
しかし、あと10年後、20年後、親子ともにこのままで幸せかを考えてみたいです。
今回は、公立中の中3生に関わる話題です。
9月に入ると、あと少しで期末試験という中学が多いです。
そのようなわけで、「期末試験対策」には、それぞれの生徒さんがそれに向けての学習を重ねているはずです。
学習内容・演習内容としては、学校の教科書・プリント類・副教材ワークなどが中心となります。
しかし、学校の副教材ワークのレベルの演習だけでは、力を持て余してしまう生徒さんもいます。
みやぎ模試偏差値50代後半より上の高校、向山・南以上のところを目指す生徒さんたちです。
そこで、紹介したいのは、旺文社から出ている「全国高校入試問題正解」です。
中でも、分野別の演習はこの時期に組み込んでみると効果があります。
今年発売された「2025年受験用」の分野別には次のように書いてあります。
・都道府県公立高校の入試問題
・扱っている問題は、2021年から2023年に出題されているもの
・分野別に掲載
ちなみに社会の目次はこういう感じです。
問題自体も、どちらかというと基本的なものが多いです。
偏差値55以上の生徒さんであれば、定期試験対策としても使うことができます。
「学校の副教材ワークは〇周やった」
「塾からの課題もほぼやった」
「ほかにやるネタはないの?」
こういう生徒さんに有用です。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
「全国高校入試問題正解」分野別シリーズは、特長として次のようなことが挙げられます。
・基本的・基礎的な問題が多い
・問題集の難易度としては、難しいものは多くない
・特に理科・社会の学習に強みを発揮できる
今は9月上旬という時期です。
そして9月の期末試験を控えたという時期でもあります。
そうした折に、この分野別シリーズは入試の入門編として、期末試験対策として、両方に役立ちます。
「過去問演習」の「はじめの一歩」という感じで取り組むといいです。
また「全国高校入試問題正解」には、分野別でないものもあります。
これは昔からあるものです。
俗に「電話帳」と呼ばれています。
今の時期に「分野別」をやる
→一通り中学の範囲が終わったころに「電話帳」を使う
これがやり方としてよいように感じます。
この件については、以下のコラムも併せてご覧ください。
解き進め方などが書いてあります。
偏差値50~60未満の中3生 「全国高校入試問題正解」をどう使う? その1
去る日曜日に放送された「サザエさん」では、なかなかに興味深いネタが放映されていました。
題は、「カツオのくやし泣き」。
今回のコラムでは、この回に絡めて、生徒さんの「悔し涙」について書きます。
まず、「カツオのくやし泣き」の回がどのようなものだったか、あらましは次の通りです。
・・・カツオは友達とトランプ「七並べ」をして負けたため、悔し泣きをする。
その一方で、カツオは8点のテストを家族に見せ、悔しがる表情を全く見せない。
家族の人たちは、カツオが悪い点を取って、悔しがる様子、悔し泣きをする様子を見たいと語る。
真面目なツッコミをすると、小学校の単元テスト(受験業界で言う「カラーテスト」)で8点を取ってくるというのは、学習障害等の発達障害を疑うレベルです。
まあ、そこは昭和から続く国民的アニメの世界です。
それは置くとして、カツオ君のような成績を取る生徒さんが、テストでよくない点数を取って悔し泣きをすることは、まず考えられません。
彼がテストでよくない点数を取って、悔し泣きをするとすれば、
カツオの8点という点が、カオリちゃんや早川さんの知るところとなる
こういうシチュエーションでしょうか。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前回のコラムで述べた「シチュエーション」とは、次の通りです。
・・・カツオの8点という点が、カオリちゃんや早川さんの知るところとなる。
そしてカオリちゃんが
「磯野君って、あのテストで8点だったんですって!
そんなにあのテスト、難しかったかしら」
と語る。
それを聞いた早川さんが
「そうよね~
普通に授業を聞いていれば、80点以上は取れるはずよね~」
と語る。
カオリちゃんと早川さんの会話が、カツオ君の耳に入る。
こんな感じでしょうか?(微苦笑)
カツオ君の性格からいって、このシチュエーション以外に、彼は自分の低成績で悔し泣きをすることはないでしょう。
たとえ、花沢さんが
「磯野く~ん
カオリちゃんや早川さんが磯野君の成績を知っても、気にすることないわよ!
あたしは全然気にしないわ~」
と、カツオ君のフォローをしたとしても...
こういうシチュエーションにしても、厳密に言えば、カツオ君は悪い点自体に悔し泣きをしたわけではありません。
彼が涙を流した原因は、
「悪い点をカオリちゃんや早川さんに知られてしまって、恥をかいた」
ことです。
ここで現実に話を戻すと、学習に関心のない生徒さんにとって、よくない成績で悔し泣きをしようという発想はありません。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
指導の際、わたしの前で涙を見せた生徒さんは何名かいます。
そういう生徒さんの多くは、
「自分がやるべきことをやらなかったため、菊池に指摘・喝入れをされ、涙をこぼした」
というものです。
これは、「悔し泣き」といえません。
たんにサボった結果です。
一方で、
「自分はやるべきことをしっかりやっていたが、結果が思うようにいかず、
自分のふがいなさに涙をこぼした」
という生徒さんも少数ながら、いました。
思い返すと、女子生徒が多かったです。
彼ら・彼女らは、勉強熱心でした。
「何とか第一志望校に合格したい」という気持ちも強く持っていました。
そういう中で、
「あと5点取っていれば、模試でB60%が取れたのに、C50%になってしまった」
というような例です。
しかも、入試が近くに迫っているとか、そういう切羽詰まった場面での悔し涙というのが多かったです。
そして、悔し涙をこぼした彼ら・彼女らは、皆さん、第一志望校に合格していきました。
悔し涙の教訓がいかせた格好です。
悔し泣きというのは、そういうものです。
磯野カツオ君に、本当の意味での悔し涙を流す日は、まだまだ遠そうです。
Twitterでは、その特性上、様々なところで論争・バトル・言い争いが繰り広げられています。
中でも、算数・数学を巡って、「かけ算の順序」というテーマがあります。
このほかにも、テストの採点方針を巡って、論争があります。
これらの根っこにあるのは、
「算数・数学の問題を、学校の先生が教えたやり方以外で解いた場合、学校の先生はバツをつけていいのか」
ということです。
例えば、タコが3匹いたとき、足の数は全部で何本?という問題。
掛け算を指導していない小1生は
8+8+8=24
と解くべき。
8×3=24
という式をテストで書いたらバツをつける
こういう指導をしている先生が、現実にいらっしゃるらしいのです。
今回のコラムでは、この種の論争を参考にして、
「受験算数・数学としては、教科書通りに解かせるのがいいか
それとも、生徒さんの自由に解かせるのがいいか」
について、わたしの考えを述べてみます。
その要点は次の通りです。
・問題は、どのような方法であれ、「まずもって正解することが大切」という方針で臨む
・授業では「教科書通りに解く」ことを扱い、また生徒さんには「教科書通り」を勧める
・「教科書通り」より「数学的に正しい・優れた解き方」をした生徒さんを称賛する
(次回に続きます)
(前回の続きです)
算数・数学の授業で指導するやり方として、わたしは「教科書通り」に教えています。
これが最もスタンダードな解き方だからです。
一方、「教科書通りに」解く生徒さんはほとんどいません。
「教科書通り」を参考にしながら、自分のやり方でやっています。
自分のやり方でやるのは、一見すると、良さそうに見えるかもしれません。
しかし、特に平均に達しない生徒さんの場合、
「そのやり方じゃあ、そりゃあ間違えるよな~」
という解き方をしているケースの多いこと、多いこと...
一言で言えば、「手抜き」です。
計算式をすっとばして、無理な暗算をするというのが、非常に多いです。
こういう生徒さんには、「自由に解かせる」という選択肢はありません。
必要なのは「癖の矯正」です。
「答えが不正解になる」というのであれば、その生徒さんにとって、そのやり方は間違っています。
・・・あなたはそういう解き方をしていますが、そういう風に解いていると、これまでの経緯から言って、間違えることが多くなりますよ。
ですから、あなたの場合は、きちんとこういう解き方をしてください。
そのほうが確実です。
正答率も上がります。
こんな具合に指導したことは、これまで何度もありました。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
一方、「答えがきちんと正解になる」という生徒さんは、どのような解き方でもOKです。
彼らは、数学の苦手な生徒さんがやるように、しばしば計算をすっとばします。
また答えの導き方も、独特だったりもします。
それは、わたしとしても、学ぶべきやり方だったりします。
「この式のこれは、どういう意味なんですか?」と尋ねたりする場合もあります。
それは数学的に理にかなったものです。
そのやり方で正解しているなら、それがその生徒さんにとって、肌に合ったやり方なのでしょう。
そして、そういう生徒さんは、
「答えを間違ってしまっては、いくら解いても、意味がなくなってしまう」
ということを理解しています。
ただ、こういうレベルの生徒さんは、そう多いわけではありません。
公立中の生徒さんで、せいぜいが上位1~2%といったところでしょう。
ときどき、受験指導者・学校の先生方の中には、
「オレのやり方以外は認めない」
という方がいらっしゃいます。
わたしはそのようには考えません。
必要なのは、「そのやり方・解き方で、確実に正解すること」です。
その点を見誤ってしまったのでは、本末転倒になってしまいます。
この点は、留意して指導に臨んでいます。
わたしは国語の指導時間に、ほぼ毎回、ボキャブラリーの時間を設けています。
その時間では、問題文の中に出てきている事項に結びつけて、単語・熟語・慣用句などの増強を図ることが目的です。
このボキャブラリーは、年齢を重ねるごとに増えていきます。
日本語を使う期間が長くなり、社会生活を送るようになると、自然とボキャブラリーは増えます。
しかし、生徒さんの場合、生まれてからたかだか10年ちょっとです。
大人に比べると、ボキャブラリーの面で見劣りするのは否めません。
一方、国語の試験では、それなりの水準のことを扱っています。
ということは、使われるボキャブラリーも高度・多種多様になっていくわけです。
ところが、生徒さんを見ていると、こちらが考えている以上に「ボキャブラリーの穴」のあることが分かります。
例えば、先日、中学生の国語の授業のことです。
「自明」という熟語の意味を問いました。
すると、平均に満たない生徒さんは、その意味を理解していませんでした。
彼らは、「自明」を「じめい」と読むことはできます。
しかし、「あまりに明らかなこと」「分かり切っていること」という意味をきちんと知っている中学生は、思ったより少ない感じです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前回のコラムで書いた「自明」の話をもう少し掘り下げます。
実のところ、「読めるが、意味はよく分からない」という言葉は、成績が下位のほうに行けば行くほど多くなります。
もちろん、読めない言葉は記憶の中にとどめることができません。
読めることは、言葉を覚えるうえで、必要な条件です。
しかし、「読める=言葉の意味を理解している」というわけではありません。
国語の時間で、漢字の読み書きは大きな位置を占めます。
入試問題にも、必ずと言っていいほど漢字問題は出題されます。
配点もそこそこ高いです。
実生活で使う頻度が高いからでしょう。
ところが、パッと見て読めてしまう言葉というのは、注意・関心が小さくなりがちです。
例えば、「耳学問」「娘を蝶よ花よと育てる」というような言葉です。
もちろん、前後の関係で、類推できるものもあるでしょう。
が、その類推にしても、限度というものがあります。
そのように「よく意味の分からない言葉」が多くなると、どうなるか。
設問で問われれていることが読み取れないことが多くなります。
ということは、どういうことか。
その設問には正解できなくなる可能性が高くなってしまうということです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
文章を読む場合、「何となく」「雰囲気で」分かるというのは、確かに大切ではあります。
しかし、事は試験です。
「何となく」「雰囲気で」というあやふやな理解では、間違う確率が高くなります。
生徒さんが国語の長文問題で間違う原因として、
「文章に出てきた言葉をきちんと理解できていない」
というのは、意外なほど多いです。
そして、彼らがよく分かっていない言葉を、わたしが別な言葉に言い換え、再び尋ねると、意外と正解を導き出せることがあります。
ということは、間違った原因は、
「文章に出てきた言葉をきちんと理解できていない」
ことです。
例えば、以下の文章がお分かりになりますでしょうか?
(1)心理学におけるレジリエンスとは、バルナラビリティーのオポジットコンセプトである。
(2)むかしむかし、ある所におじいさんとおばあさんがいました。
多くの方が「1はさっぱり分からない」となったのではないでしょうか。
これを雰囲気で分かろうと思っても、無理があります。
これで分かるように、国語の試験の長文は、ボキャブラリーをいかに深く・しっかり理解しているかが重要か、お分かりかと思います。
そして語彙力は知識量とも深く結びついています。
今回のコラムでは、毎日の学習量について取り上げます。
多くの学習塾では、何らかの形で課題・宿題の類が出ます。
学校でも中学では、副教材ワークが課されたりします。
例えば、
「今度の定期試験までにワークの10ページから40ページを課題とします」
というような感じで
それから成績が一定レベル以上になると、こうした課題のほかに、自習用の教材などを自分で解き進めていたりしています。
例えば、「全国高校入試問題正解」を自分でガンガン解いていったり等々。
いずれにしても、多くの場合、
「理科は1日5ページやる」
「数学は副教材ワークを3ページ」
というようにするのが普通です。
そうしたとき、わたしは現役学生のころ、日々の学習をやるとき、このようにひと細工していました。
・・・今日は、数学の問題集4ページ、理科の電流の部分を3ページ、国語の読解問題を2題やる。
そして、これ以上はやらない!
このように、
「これ以上はやらない!」
というのを付け加えていました。
すると、ただ何となく「数学の問題集4ページ」と日々のノルマを決めるより、スッキリした気分で学習に向かうことができました。
「やる気」のようなものが出てくるのです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
「今日は、数学の問題集4ページをやる。
そして今日はこれ以上はやらない!」
ここで、「これ以上はやらない!」というフレーズを付け加えると、なぜいいのか。
わたしにもハッキリした理由は分かりません。
それはたぶん、「いつまで頑張ればいいか、ハッキリするから」なのかもしれません。
確かに、
「今日は、数学の問題集4ページをやる。」
というのだけでも、今日のやるものは分かります。
しかし、「これ以上はやらない!」とすることで、学習する範囲がよりハッキリします。
何かをするときには、「どこまでどのくらいやるのか」という目標がハッキリしている場合と、そうでない場合とで、心理的な負担は違います。
「どこまでやればいいか」の目標が明確になれば、「あとどのくらいやればいいのか」ということが分かります。
ですから、「これ以上はやらない!」と固く心に思うと、学習の志気にも関わってきます。
受験のための学習というのは、面白おかしいものではありません。
何がしかの苦行を伴うものです。
そんな中、そうした苦しさがわずかでも減ったほうがいいはずなのは、言うまでもありません。
このようなことからも、「やるべきことをしっかり意識する」ことの大切さを感じます。
今回は「国公立大至上主義」というワードについて、語ってみます。
当コラムをお読みのご父兄は、「国公立大至上主義」という言葉をご存じでしょうか?
これは大学受験に関して、受験業界でしばしば語られる言葉です。
この言葉の意味するところはどういうことか、サラッと述べてみます。
・高校での進路指導が「国公立大への合格者増」を主眼にしている
・「国公立大への合格者増」を主眼にするあまり、私大を目指す生徒が学校内で何かと冷遇されている
・主に偏差値50台の公立高校で、そうした空気があるとされる
事実、この「国公立大至上主義」というキーワードでネット検索をすると、いろんな情報がヒットします。
この「国公立大至上主義」というものに関しては、主に偏差値50台の公立高校で、私大を目指す生徒さんから怨嗟の声が上がっているようです。
まあ、確かに理解できます。
そして、この「国公立大至上主義」に関するネット情報は、主に東京・大阪のような大都市圏を中心に想定しています。
よって、必ずしも宮城県の状況に当てはまるものばかりではありません。
ですから、情報の内容としても、もう一度じっくり見てみる必要があるように感じています。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
「国公立大至上主義」の高校で行われている指導として、よく言われるのは、
「自分は私立志望なのに、担任の先生が進路指導のとき、無理くり国公立を勧めてくる」
というものです。
こうした話は確かに聞きます。
そういう先生がいらっしゃるのも事実ではありましょう。
しかし、そういう先生が多数派というわけではありません。
先生がどのようにアドバイスしようが、国公立・私立のどちらを受けるか、最終的に決めるのは生徒さん側です。
もっとも、私立に行きたいという生徒さんからすれば、それが癪の種になるのは分かりますが...
一方、偏差値50台の公立高校で、国公立大を受験のメインに据えるのは、高校なりの理由があります。
まず、何だかんだで、「できれば国公立に」という父兄からの要望は、強くあります。
それから、「高校の入試難易度が高くなればなるほど、国公立合格者の割合が高くなっている」という事実も無視できません。
この点については、こちらも参照してみてください。
<参考コラム>
(次回に続きます)
(前回の続きです)
前回のコラムの関連で、以下述べます。
いま、あることがネット界隈で語られています。
それは、偏差値50台の公立高校、特に「国公立大至上主義」の人気が、段々となくなっていくだろうというものです。
「人気がない」というのは、その高校を志願する受験生が減っていってしまうということです。
東京などの大都市圏はそのような傾向があるようです。
当地宮城の場合でも、向山理数のような学科があります。
ここは、11月の出願希望調査と1月の本出願とで、数字のブレが大きいです。
ただ、このブレは、定員が40名という風に少ないがゆえ、数人の数字の動きが倍率に大きく影響します。
そうした点も見ておかなくてはなりません。
わたしが見るに、偏差値50台の公立高校の人気は、仙台圏を主とする限り、低迷していくというような兆候は感じません。
東京と地方は、なぜ違うのか...
東京など大都市圏では、難易度ごとに人気のある私立大学が数多くあります。
東京における早慶上智・GMARCH、関西における関関同立など。
この種の私大ラインナップは、東北・宮城・仙台では、なかなか存立が困難です。
そういった事情もあって、偏差値50台の公立高校は、今も人気を保っているとわたしは考えています。
今回のコラムは、英語の指導をしていて、気になったことを書いてみます。
その「気になったこと」というのは、
「小さいころから英語教室で英語を習っているのに、なぜ中高で英語の点が悪くなってしまうケースがあるのか?」
という点です。
それに対する答えとしては、
「英語教室でやる英語は、学校のテストの英語と別物だから」
という一言で済まそうと思えばできます。
しかし、ご父兄としては、学年が進むにつれ、学校の英語の点が段々と悪くなっていくのは、愉快ではないはずです。
以下、掘り下げてみます。
学校の英語の点数に関して、高得点を取る生徒さんの状況としては、こんな感じです。
・小さいころから英語を習っている人は意外と少ない
・他の科目の点も高得点であることが多い
→特に数学
逆に、学年が進むにつれ、学校の英語の点が段々と悪くなっていく生徒さんの状況は、次の通りです。
・英語のルール(=文法)を知らない・理解できない
・他の科目、特に数学の点にかなり改善の余地がある
学年が進むにつれ、英語の点が取れなくなっていく生徒さんは、英語以外の科目を十分に勉強していません。
それでも英語だけは、「小さいころからの貯金」があるおかげで、少しサマになっているという感じです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
「英語の高得点者で、小さいころから英語を習っている人は意外と少ない」
その一方で、
「小さいころから英語教室で英語を習っているのに、学校の英語の点が段々と悪くなっていく」
これをどう説明すべきか。
英語の試験では、他の科目と同様、総合的な学力・理解力が関係してくるということです。
そして、その総合的な学力・理解力は、「文章を読解する力」が基礎となります。
今回問題にした「だんだん英語の点が悪くなる」という生徒さんは、とにもかくにも、英語のルール(=文法)を知りません。
「何となく」「勘だけで」その場を乗り切っているという感じです。
ですから、「あなたは幸せですか?」という英文を、
Are you happy?
と書いたり、
Do you happy?
と書いたりしています。
どちらを書くかは、そのときの気分・感がよりどころです。
確かに彼らは、英語に関して、それなりの蓄積があります。
しかし、学年が上がるにつれ、英文は難しく、そして長くなります。
テストに出題される英文は、日本語でなく、英語になっただけで、内容自体に変わりはありません。
となれば、学年が進むにしたがって、それなりの文章読解能力が必要となります。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
今回のコラムでは、
「小さいころから英語教室で英語を習っているのに、学校の英語の点が段々と悪くなっていく」
この理由を扱っています。
逆に、「小さいころから英語教室で英語を習っていないのに、高得点を取る」という生徒さんは、どうなのか。
彼らは英語に限らず、学習全般で高得点を取ります。
ですから、もともと高度な学習能力があれば、小さいころからやっていなくても、追い付くことができるわけです。
逆に、いくら小さいころから英語を一生懸命やっていても、本人の学習能力以上には、上向きません。
高度な学習能力というのは、まずもって、日本語の文章読解能力を必要とします。
文章読解能力をつけるためには、いろんな知識・語彙力が不可欠です。
英語の文法を理解する力も、英語力というより、日本語の読解能力を必要とします。
ですから、
「英語でいい成績を取るために、小さいころから英語は習わせなくてはなりませんか?」
という問いに対するわたしの答えは次の通りです。
「小さいころからの蓄積はあったほうがいいが、それで十分ではない」
「英語で高得点を取るためには、むしろ日本語の文章読解力が大切な意味を持つ」
以上になります。
今回のコラムでは、偏差値60以上の中学生に限定して話をします。
テーマは、数学です。
その中でも、「計算の面倒くさすぎる数学の問題」についてです。
このクラスの生徒さんになると、ときどき、塾のテキストの「発展問題」などのページにあるものにも取り組む必要が出てきます。
また「全国高校入試問題正解」、別名「電話帳」での演習もしておく場合もあるでしょう。
そういう演習をしていると、出てくる悩みとして、
「問題を解くのに時間がかかりすぎる」
ということがあります。
問題を解くのに時間がかかりすぎるというのは、次のような場合です。
・方針がたったはいいが、計算が面倒すぎる
・自分の能力ではまるっきり歯が立たなかった
ここで「計算が面倒すぎる問題」をどうするかは、悩ましいところです。
そうしたとき、わたしが勧めるやり方は、「間引き」です。
この「間引き」とは、具体的に言うと、次のようにすることです。
→「最後まで解く問題数を決めておく」
「ある程度のところまで来て、正解できる方針が立てば、正解と見なすケースを設ける」
そのようにして、できる限り時間を効率的に使うようにします。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
ここで留意していただきたいのは、
「最後まで解く問題数を決めておく」
というフレーズの意味です。
すべての問題を途中までしか解かないということになれば、計算力は落ちてしまいます。
かといって、すべての問題を最後まで解こうとすれば、時間はいくらあっても足りません。
学習すべき科目は、数学だけではないからです。
ですから、
「ある程度のところまで来て、正解できる方針が立てば、正解と見なすケースを設ける」
というのは、それなりに「効率的な学習」になります。
「ある程度のところまで来て、正解できる方針が立つ」
というのはどのようなことなのか、偏差値60以上の中学生なら、
「ああ、あのことね!」
と理解するはずです。
それから、知っておいていただきたいのは、複雑怪奇に見える問題でも、基本的な事項の組み合わせで出来上がっているということです。
確かに実際の入試で、複雑すぎる問題が出たら、「捨て問、もしくは後回し」案件でしょう。
それが解けなくても、公立高校の入試なら、まず大丈夫です。
ただ、難しい問題へのアプローチ方法を学んでおけば、高校以降の数学へつながります。
言い換えると、高校入試用の難問は、高校数学=大学入試の数学に役立ちます。
この点、頭の片隅に置きながら、学習を続けていってほしいです。
こないだ、授業のとき、公立中学の中2生にこんな話をしました。
・・・今、9月も終わりに近づいています。
9月が終わるのは、毎年のことです。
でも、今年の9月の終わりって、中学での生活が半分終わってしまうということなんですよ。
来年の中3のことを話しますと、来年の11月に定期テストがあります。
ここで、内申評定が決まります。
内申評定が決まるまで、1年ちょいくらいしかないんですよ。
そして、11月の終わりから、12月の初めにかけて、志望校を決めて、学校へ提出するように言われます。
ですから、実際の入試を受けるまで、前倒しでいろんなことをやらなくてはいけないんですよ。
そうすると、再来年3月の公立高校入試まで、そんなに時間がある訳じゃないんです。
このように言うと、彼らの目・顔にちょっと動きがあったように感じました。
「え? そうなの?」
という目をしている生徒さんが多かったです。
一方で、中高一貫校の中2生に、こういう言い方は通用しません。
彼らは基本的に、高校入試を経ずして、そのまま高校へ上がるからです。
ですから、中高一貫校の生徒さんは、トップ層にいても、公立中の2年生が感じなくてはならないような「せわしなさ」を感じずに済みます。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
中高一貫生は、高校受験を経験しません。
ストレートに大学受験・高校卒業後の進路へ向かいます。
それには、プラス面とマイナス面があります。
プラス面としては、トップ層にとって良いシステムであることです。
中高一貫校でトップクラスの成績であれば、ガンガン学習を先取りすることができます。
高校受験を経る生徒さんより、大学受験にゆとりをもって臨むことができるのです。
難関大の合格者が多いのは、ほとんど名門といわれる中高一貫校です。
一方、マイナス面としては、高校入試を経ないため、ノホホンとしてしまう生徒さんが一定数で出てしまうことです。
中高一貫校の中2生にとって、入試まで4年あります。
この4年間、先取り学習を進めるのに充てる生徒さんと、「入試までまだまだ」と考える生徒さんとに分かれます。
わたしが見るに、全体として「入試までまだまだ」と考える生徒さんのほうが多いです。
たぶんそういう意識の差が、進学実績で二高と二華の差となっているのではないかと考えています。
それから、公立中学の2年生の場合、特に平均に達しない生徒さんは、中3になっても「入試に対する意識」がほぼないというケースは多いです。
念のため、付け加えておきます。
9月、終盤にかかっています。
この時期の受験生を見ていると、感じます。
「結局マインドがいちばん大事なんだろうなあ」
ここでいう「マインド」というのは、まずひとつに「健全な精神」というのがあります。
「健全な精神」というのは、決まった時間に学校に行って、授業を受けて...
このように規則的な生活を送ることができるということが、含まれるでしょう。
そして、「マインド」として、特に受験生としては、
「どうしても○○高校に入りたい」
「何とかして今度の定期試験では◎◎点を突破したい」
という欲求が大切です。
だいたい、多くの生徒さんの場合、志望校ラインは「実力より上」です。
「実力相応」というケースは少ないです。
「実力より下」は、ほとんどいません。
これが現実です。
生徒さんの多くは、できれば「上のほうに行きたい」という希望を持っています。
そして、「実力より上」のところを志望校としている生徒さんの多くは、それに向けて何かものすごい努力をしているのか。
それに対する回答は、多くの場合、ものすごい努力をしているわけではありません。
これまで通りのペースで勉強して、実力相応のところへ収まっていくという感じです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
志望校ラインについては、以前に生徒さんとこんなやり取りをしたことがあります。
菊池:
君は模試のとき、今の成績より偏差値が10以上も高いところを第一志望にしてますよね。
ここに入りたいと思ったのは、どういったきっかけなんですか?
生徒さん:
自分の友達のお兄ちゃんがここに通ってて、何となくいいなあって思って...
菊池:
で、この高校にはどうしても入りたいですか?
生徒さん:
エ...(と言ったきりしばし沈黙)
こういう生徒さんに、本気度は全く感じません。
事実、この生徒さんは、実力よりちょい上くらいの公立高校に挑戦しましたが、及ばず。
とある私立高校に行きました。
それからこういうケースもありました。
菊池:
第一志望校までは何とか届くかもっていう感じですが、安全っていうわけではないですね。
この高校、どうしても入りたいですか?
生徒さん:
はい、どうしても行きたいです!(と即答)
「はい、どうしても行きたいです!」と即答するということは、きちんと腰が据わっていると判断します。
その後、その生徒さんは、無事に第一志望校に合格しました。
当たり前と言えば、当たり前の話です。
しかし、生徒さんを見ていると、どうもこの当たり前のことが理解されているように見えないのです。
(次回に続きます)
(前回の続きです)
結局のところ、「効率的な勉強法」とか「点の取れる勉強のやり方」をいくら追っても、マインドにはかないません。
もし「どうしても○○高校に行きたい」と思ったら、その生徒さんは、必ず何らかのアクションを起こすはずなんです。
人間、「どうしてもお金が欲しい」となれば、人殺しだろうが、銀行強盗であろうが、やってしまう生き物です。
愚かしいことに。
こういうことは認められるものではありません。
ただ、わたしが申したいのは、人間、必死になれば、手が後ろに回ることでもしてしまうということです。
そして、「どうしても○○高校に行きたい」となれば、その生徒さんの「どうしても」の度合いなりに、誰からの指示を受けることなく、やれることをやっていくはずなのです。
ですから、いくら生徒さんが言葉で取り繕っても、
「本人の今の成績がこうで、こんな風にやってるのなら、必死さはないな」
と感じるわけです。
もちろん、わたしは生徒さん全員に「必死さ」を要求するつもりはありません。
ただ、「必死さ」というものは、見る人が見れば、分かるはずであるということ。
そして、そういう「必死さ」を感じる生徒さんは、指導に当たる者として全力で応援していく。
この2点に尽きます。
先日、生徒さんにこんな話をしました。
・・・高校生が参加する「溶接甲子園」っていう大会があるそうです。
「溶接」っていうのは、金属同士をつなぎ合わせる作業のことです。
全国の工業高校の生徒さんが、その大会でその腕を競うというものです。
かなりレベルが高いです。
彼らは技術があるから、それを仕事にしていけます。
さて、皆さんは将来、「これで食っていく」っていうものを身につけていますか?
「わたしは顔がキレイだから、芸能人になって食っていく」とか?(笑)
多くの人は、そういうものは、今のところ、身についていないと思います。
「将来それで食っていくっていうものは、ないなあ」
そう思ったら、いまの勉強をやっていってください。
学校でやってる勉強っていうのは、なぜこんなものをやるのか、学校にいるうちは分かりません。
就職をするなどして、社会に出て、初めて分かります。
偉そうなことを言ってるわたしも、学生のうちは、勉強してる意味なんてよく分かってませんでした。
その証拠に
「学生のとき、もっと勉強していればよかった」
こういう大人はたくさんいます。
「学生のとき、もっと遊んでいればよかった。
勉強をして損してしまった」
こういう大人に会ったことがないんです。
それが答えじゃないでしょうか・・・
生徒さんにはこう伝えました。
通じたかな?
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